2013年01月29日

真田信之 9

 真田幸隆までの真田氏については不明な点が多い。
 江戸時代松代藩に残された記録では、真田昌幸の父の幸隆が海野宗家を継承して、真田郷に住んだために真田姓を名乗るようになったとされている。
 海野氏は滋野一族の頭領を自認していた。滋野一族は、清和天皇の第四皇子である貞保親王(さだやすしんのう、陽成天皇の同腹の弟)が信濃国海野庄(現長野県東御市本海野)に住し、その孫の善淵王が延喜五年(九〇五)に醍醐天皇より滋野姓を下賜(滋野善淵)されたことにはじまるとされる。
 滋野氏はその後、領地である海野荘に因み海野を名乗るようになる。海野氏の初代は重道であり、その子の代になって望月氏・禰津氏が分かれた。これを滋野氏三家と呼ぶ。
 しかし、これはあくまでも「とされる」程度の話であり、実際に海野氏が清和天皇に源を発しているのかどうかは定かではない。この時代の系図というものは相当いい加減なものも多く、由緒正しき貴種の末裔であると名乗ってはいても、土着の豪族である場合が多いのである。
 ただ、滋野氏の祖が都から派遣された国牧の管理者だったのではないかとする説は注目に値する。古来より小県・佐久地方は朝廷に献上する馬の産地として有名であった。中でも望月の牧は、信濃の国十六牧の筆頭に数えられていた。紀貫之に「逢坂の関の清水に影見えて今や引くらん望月の駒」の歌がある。
 滋野一族は、国営の牧の管理をしたり、その関係で渡来人との関係を深めたりと、農耕主体の生産活動とは少し異なった一族であったようだ。さらには、望月氏から分かれた甲賀望月氏については、兵藤裕巳氏により次のような指摘もされている。
「甲賀望月氏は、信州望月の牧に拠った滋野三家(望月・海野・禰津)の一流である。中世には諏訪信仰をもちあるく山伏となり、なかでも近江国甲賀郡にうつり住んだ望月氏は、甲賀五十三家といわれた地侍(いわゆる甲賀流忍者)の宗家となっていく。」(『太平記よみの可能性』)
 甲賀に望月氏の一族が土着したのは、信濃の牧で産した馬を都に運ぶ途次、途中の甲賀付近で休養し調教を行っていた関係で、古くから地縁があり、平将門の乱で望月三郎兼家が武功の恩賞として近江国甲賀郡を賜ったことによるという。
 忍法のもととなったのは、山伏や修験者の山岳での修行や荒行であるといわれている。もともとこの信州の山岳地帯を本拠地とする滋野一族は山伏との関係が深く、忍法のもととなるような武術も身につけていたのではないかということは考えられる。それが甲賀に移り甲賀流の忍術となり、信濃にあっては、真田得意の奇襲作戦に発展していったのではないか。
 戦国時代になって、この甲賀望月氏の一族から信濃望月氏の当主望月盛時の妻となったのが、望月千代女である。望月千代女は武田信玄の命により同じ小県郡の禰津の里に巫女の養成所をつくり、彼女らに忍法の修行もさせ、全国をまわり情報を集めさせた。いわゆる歩き巫女、ののう巫女と呼ばれる女たちである。


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Posted by 南宜堂 at 23:00│Comments(0)真田十勇士

 
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