2013年01月30日

真田信之10

 奈良時代、信濃の国の国府は上田近辺にあった。ここが信濃の国の都であったのだ。
 上田市国分のしなの鉄道信濃国分寺駅の近くには、信濃国分寺史跡公園が広がり、資料館も建てられている。国分寺は、天平十三年(七四一)の聖武天皇の詔により建設されたものだが、信濃国分寺もその頃の創建であると推定される。そして、国府の近くには、必ず国営の牧があった。
 信濃史学会の会長であった一志茂樹博士と上田・小県誌編集委員会・真田町教育委員会は、昭和五十一年から三年間にわたって真田町内を調査した結果、真田氏の出自について興味深い結果を発表している。
 信濃の国の国府に付属して軍事用あるいは運搬用の馬を飼育するための国営の牧が真田町周辺に置かれていたのではないかというのである。
 その根拠として、「真田町やその周辺に牧の平という地名がいくつか見られること」「駒形神社が真田町の山家神社境内と、四阿山頂近くの群馬県側にあること」「菅平に夏季放牧の管理者の住居跡と見られる遺跡が発見されたこと」などをあげている。
 要するに、国営の牧が真田の地にあり、菅平や四阿山の麓、群馬県の吾妻地方などが放牧地として当てられていた。そしてこの牧の経営に当たっていたのが真田氏であったというのである。
 一志博士らの報告はここまでだが、この馬の放牧は真田幸隆が登場する戦国時代にまで受け継がれていて、この地方は良馬の産地として知れ渡っていたのではないか。当然のことながら、戦乱の時代になると馬は必需品である。武田信玄が真田に注目したのは、現代でいえば軍需産業ともいうべき、真田の軍用馬の生産技術ではなかったかとも思われるのだ。
 その古代に馬の放牧地であったとされる真田の里からは美しい四阿山や根子岳を望むことができる。四阿山は古来より白山系の修験の山としてその名が知られていた。
 ふもとの山家神社は小県に四社ある「延喜式内社」のひとつで、由緒は古い。この地区の産土神であるとともに加賀の白山社を合祀している。
 この山家神社は里宮で、奥宮は四阿山山頂にある。四阿山は日本百名山の一つでもあるが、修験の山としても古くから信仰を集めていた。
 四阿山に集う山伏たちは全国を回り、さまざまな情報を真田の里にもたらしたのであろうと想像できる。また、後に真田氏が全国にその名を知られるようになると、積極的に彼らの情報網を利用し、全国の諸大名の情報を集めたのではないか。
 さらに、山野を跋渉し修行に励んだ修験者たちのなかから真田に臣従する者たちもあらわれてきたのであろう。彼らはそれほど身分の高いものではなかったが、真田のゲリラ戦の実戦部隊として大いに活躍したのではないだろうか。 修験者たちが修行をしたと伝えられる角間渓谷はまた、猿飛佐助が忍術の修行をした地であるとも言われている。


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Posted by 南宜堂 at 22:34│Comments(0)真田十勇士

 
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