2013年02月20日

勝頼の最期

 これより先、勝頼は二月二十八日に諏訪から新府城に戻っていたが、高遠落城の知らせに城内は混乱の極みとなった。最早織田軍が甲斐に攻め入るのは時間の問題、家臣たちは浮き足立っていた。真田昌幸はこの時自領の吾妻に居たが、使者を送って勝頼にひとまずは兵をまとめて岩櫃の城に逃れるようにと勧めたという。しかし勝頼はその申し入れを退け、近臣である小山田信茂の居城である岩殿城に逃れることを決めた。
 翌三日、勝頼の一行は新府城を後に岩殿城を目指して出発した。しかし、馬も人足も満足に揃えることができず、勝頼夫人は輿ではなく、馬に乗っての道行きであった。
 一行は柏尾、駒飼と追っ手を避けながら進んだ。三月五日、笹子峠の麓駒飼にたどりついた勝頼らはここで小山田信茂からの迎えを待った。しかしこの時、小山田信茂は勝頼に見切りをつけていた。あろうことか、人質として留めてあった信茂の母が、武田左衞門(信玄の弟で信茂の婿)の手引きにより逃げ出してしまったのだ。慌てて後を追うと、待ち伏せていた小山田の兵が鉄砲を撃ちかけてきた。
 信茂に裏切られたことを知った勝頼は、もはやこれまでと覚悟を決めた。十一日の朝、滝川一益が数千の兵を率いて攻めかかってきた。対する勝頼の陣は五十人、とても勝ち目はなかった。勝頼と夫人はここで自害し、付き従う者たちもすべて討ち死にした。戦国の雄武田氏はここに滅びたのである。

 勝頼自害の報を聞いた昌幸は、四月八日には変わり身早く信長に駿馬を贈って忠誠を誓った。ところがそれからまもない六月二日、信長は明智光秀の奇襲を受け本能寺で自害してしまう。信長死後の東信濃は徳川・上杉・北条の勢力争いの場となった。その中で真田は臣従する相手を次々と変えながら生き残る術を探っていた。
 


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Posted by 南宜堂 at 21:14│Comments(0)真田十勇士

 
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