2013年04月11日

父子の対立

 関ヶ原の戦い前夜の石田方から真田に宛てられた書状は十一通が残されている。差出人は、石田三成・長束正家ら奉行衆・西軍大将の毛利輝元・信繁(幸村)の舅である大谷継である。時系列的に見ていくと、まず先に記したように慶長五年七月十七日付の長束正家・増田長盛・前田玄以からの蜂起の知らせである。この書状を見た昌幸は、信幸を自陣に呼び寄せ、信繁も交えてその去就を協議した。
 結果、昌幸と信繁は兵をまとめて上田に帰国するのであるが、その時期は徳川家康から信幸に宛てて「今度安房守罷り帰られ候のところ、日比の儀を相違へず、立たれ候こと、奇特千万に候」という褒状が二十四日付けで発せられていることから、これ以前であることがわかる。
 十七日付けの書状に対し、昌幸は二十一日に返書を認め石田方に送っている。これはまだ犬伏に在陣中のことであろう。その内容は書状自体が残されていないので不明だが、これに対して石田三成から昌幸に相談なく事をおこしたことへの詫びが記されていることから、恐らく三成の独断を責めるものであったろうことが予測される。
 その後、八月一日付けで長束らから伏見城陥落の書状が届くが、昌幸はこれを上田で見ているはずである。この後も石田方からの書状は大本営発表的な威勢のいいものが続くが、これを昌幸はどう分析していたか。いずれにせよ八月初めのあたりで石田に与することをはっきり決めたようだ。これに対し三成からは、小諸・深志・川中島・諏訪などの仕置きを任せるとか、信州一国はもとより甲州をも任せようという空手形が届く。東国に一人でも味方のほしい三成であった。
 一方徳川の陣に残った信幸には、次のような安堵状が家康から発せられた。「今度安房守別心のところ、その方忠節を致さるの儀、誠に神妙に候、然らば、小県のことは親の跡に候の間、違儀なく遣はし候。その上身上何分にも取り立つべきの条、その旨を以っていよいよ如在に存ぜられまじく候。乃って件の如し。
慶長五年七月廿七日家康
真田伊豆守殿」
 この時の家康の脳裡には五年前の第一次上田合戦の悪夢がよぎったのかもしれない。昌幸を敵にまわしたことに一抹の不安はあっただろうが、あの戦いで奮戦した信幸が味方についたことでその不安も幾分かは軽減したのであろう。来るべき戦いに備え信幸も兵をまとめていったんは沼田に退いた。


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Posted by 南宜堂 at 09:08│Comments(0)真田十勇士

 
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