2013年05月30日
史実とロマン
いま松代に行くと、「佐久間象山ゆかりの城下町」というのぼりがあちらこちらに翻っている。町の人にお聞きすると、観光客が増えているのだそうだ。それも、NHK大河ドラマ「八重の桜」に象山が登場して、奥田瑛二の演技もあって象山目当ての人が多く訪れるようになったのだという。そこで急遽のぼりを作り、パネル展なども行っているのだという。大河ドラマ恐るべしである。しかも、今回の象山は会津藩士山本覚馬の師として好意的に描かれていたからよかったのだろう。過去に象山は何回か大河ドラマに登場しているが、その描かれ方は勝海舟の象山評をなぞる形で、傲慢であたりかまわず威張り散らすといった鼻持ちならない奴であった。特に米倉 斉加年が演じた象山は印象的で、これはこれで象山の一面かもしれないとは思うが。
大河ドラマというのはその名の通りドラマであって歴史ではないのだからそういう見方をすれば問題ないのだろうが、視聴者の中には思い入れがはげしく、ドラマと歴史をごっちゃにしてしまう人がいるのだ。これから話そうと思っている真田幸村の物語などその際たるもののようである。
真田幸村の物語となると、池波正太郎の「真田太平記」だろう。大河ドラマではないが、昭和60年にNHKの大型時代劇でも放映されている。真田昌幸が丹波哲郎、信之が渡瀬恒彦、幸村が草刈正雄であった。
同じ年に長野県では「真田一族の史実とロマン」(東信史学会編)という本が出版されている。そのあとがきには「この機会にその真実の姿を明らかにしておく云々」とあるから、テレビドラマのフィクションを正すということを大きな目的とした本であったと思う。私はこのドラマを見ていないが、原作を読むかぎりでは歴史小説というより時代小説といった方がいいほどにフィクションいっぱいの物語であった。もともと池波正太郎は「真田太平記」で歴史を書こうというつもりはなかったように思われる。信州小県の土豪であった真田氏を歴史の中に位置づけるのは難しいことである。
一方で、最近手にした「川中島の戦いと北信濃」(信濃毎日新聞社)という本もやはりNHKのドラマ「風林火山」で取り上げられた川中島の戦いについて、「川中島の地に住む者として、そのいきさつを「物語」の形だけで全国に発信されるだけでいいのかという思い」が根底にあって生まれた本であることを編者は記している。
特に地域で地味に歴史の研究に携わっている人々にとっては、自分の研究テーマがドラマになったりして注目されるのは、うれしいことには違いないのだが、ちょっとそれは史実と違うんじゃないかと、そのままそれが歴史的な事実になったら困るなあという危機感もあるようだ。
「真田一族の史実とロマン」では真田一族というのは、戦国の国盗りの渦中にあって有力大名の間を渡り歩いた零細大名という印象が強く、真田幸村でさえ、「真田太平記」の中で縦横無尽の活躍をするスーパーマンとはほど遠い存在ということになっている。
私たちとしては小説やドラマの作り手と歴史研究者の狭間に立って、フィクションとしてとらえて物語を楽しめばいいのだが、個人的にはなぜそんなフィクションが生まれてきたのかという時代の背景を探るのもまた興味深いことである。
大河ドラマというのはその名の通りドラマであって歴史ではないのだからそういう見方をすれば問題ないのだろうが、視聴者の中には思い入れがはげしく、ドラマと歴史をごっちゃにしてしまう人がいるのだ。これから話そうと思っている真田幸村の物語などその際たるもののようである。
真田幸村の物語となると、池波正太郎の「真田太平記」だろう。大河ドラマではないが、昭和60年にNHKの大型時代劇でも放映されている。真田昌幸が丹波哲郎、信之が渡瀬恒彦、幸村が草刈正雄であった。
同じ年に長野県では「真田一族の史実とロマン」(東信史学会編)という本が出版されている。そのあとがきには「この機会にその真実の姿を明らかにしておく云々」とあるから、テレビドラマのフィクションを正すということを大きな目的とした本であったと思う。私はこのドラマを見ていないが、原作を読むかぎりでは歴史小説というより時代小説といった方がいいほどにフィクションいっぱいの物語であった。もともと池波正太郎は「真田太平記」で歴史を書こうというつもりはなかったように思われる。信州小県の土豪であった真田氏を歴史の中に位置づけるのは難しいことである。
一方で、最近手にした「川中島の戦いと北信濃」(信濃毎日新聞社)という本もやはりNHKのドラマ「風林火山」で取り上げられた川中島の戦いについて、「川中島の地に住む者として、そのいきさつを「物語」の形だけで全国に発信されるだけでいいのかという思い」が根底にあって生まれた本であることを編者は記している。
特に地域で地味に歴史の研究に携わっている人々にとっては、自分の研究テーマがドラマになったりして注目されるのは、うれしいことには違いないのだが、ちょっとそれは史実と違うんじゃないかと、そのままそれが歴史的な事実になったら困るなあという危機感もあるようだ。
「真田一族の史実とロマン」では真田一族というのは、戦国の国盗りの渦中にあって有力大名の間を渡り歩いた零細大名という印象が強く、真田幸村でさえ、「真田太平記」の中で縦横無尽の活躍をするスーパーマンとはほど遠い存在ということになっている。
私たちとしては小説やドラマの作り手と歴史研究者の狭間に立って、フィクションとしてとらえて物語を楽しめばいいのだが、個人的にはなぜそんなフィクションが生まれてきたのかという時代の背景を探るのもまた興味深いことである。
Posted by 南宜堂 at 23:16│Comments(0)
│真田十勇士