2013年08月29日

天田愚庵のこと

 「東海遊侠伝」の作者天田愚庵のことも少し整理して書いておきたい。


 天田五郎(後の愚庵)が清水次郎長の食客となったのは、山岡鉄舟の紹介によるものであった。年譜(「愚庵全集」所載)によると、明治十一年のことであった。る。五郎はこのとき数え二十五歳、ちなみに次郎長は五十九歳、鉄舟は五十三歳であった。
「東海道を経て京都に入り、山陰道を探索して大阪に滞在、山岡鉄舟の書に接し、東上静岡にて鉄舟に面す。遂に侠客清水次郎長事山本長五郎に託せらる。」
 そのとき鉄舟は「常になき不興の体にて、言語道断御身何とて我にも告ず東京は抜出たるぞ」(「血写経」)全くどうしようもない「尻軽き尻焼猿かな」としたたかに叱られた。そこにたまたまか、鉄舟と示し合わせてあったのか次郎長が現れた。鉄舟は次郎長に「親方よ、我今ま汝に預くべき物こそあれ、此の眉毛太き痴者をば暫らく手元に預かり呉れよ、尻焼猿の事なれば、山に置くもよかるべしと言えば、次郎長は去る者其意を察し、畏まって候、某し屹度預かる上は御気遣あるな、併し余りに狂ひ候はば其時胴切に斬り放し候ほどの事は御許しあれかしなど戯れて」次郎長は五郎の身柄を引き受けたのである。
 何か芝居がかった話だが、実際に前もって鉄舟と次郎長の間では話がついていたのかもしれない。この二人の因縁についてはよく知られた話で、後に記すことになると思うが、取りあえず先に進む。
 尻焼猿とは江戸言葉で「物事に飽きやすく、なかなかひとつのことをし遂げることのできない人」の謂いである。鉄舟から見れば、まさに五郎は尻焼猿であったことだろう。
 私が天田愚庵の名を知ったのは、ずいぶん前のことである。戊辰戦争で生き別れとなった両親と妹を捜すため、写真師となって日本中を放浪して歩き、ついには清水次郎長に見込まれて養子となり、次郎長の一代記である「東海遊侠伝」を書いた。その数奇な生涯に強い興味をおぼえたのだ。
 愚庵の生きた時代は、幕末から明治という明治維新の動乱期であった。いわば幕末の内乱から明治の近代国家へと日本が大きく変わろうとする時代である。
 愚庵はこの激流に深く関わって生きた人物というわけではない。むしろ、その時代に背を向け、ひたむきに自分の内面を見つめて生きたという感がある。しかしその生涯は実に波瀾万丈、興味は尽きないのである。


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Posted by 南宜堂 at 10:53│Comments(0)幕末・維新

 
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