2011年02月24日

意地と度胸じゃ負けないが

 逃亡と放浪の旅に明け暮れた清水次郎長の足跡は、北は越後の長岡から西は四国の金比羅まで、ほぼ日本列島の中央部を往き来している。その中でも、遠江、三河、駿河、尾張、伊勢といった東海道筋、そして富士川沿いの甲州路を頻繁に往来している。その理由として天田愚庵は東海、東山、北陸の三道は特に侠客の多い土地柄であるからとしている。確かに国定忠治や黒駒勝蔵といった股旅小説や浪曲に取り上げられる侠客はそのあたりに多い。
 侠客であるので、生業というのはおかしいが、彼らの収入は賭博や用心棒といったことで支えられていた。商品経済が発達し、物資の流通が盛んなこれらの地方は人足たちの娯楽である博奕や、商売を巡っての諍いも多く、侠客は重宝な存在であった。江戸時代の侠客は商品経済の申し子のような存在であったのである。負けないが
 しかし彼らは正業につかない無宿人である。お上の庇護はないばかりか、時には犯罪者として追われる立場にあった。次郎長が清水港に落ち着けなかったのも、凶状持ちであったからである。
 そんな時、侠客たちの相互扶助のネットワークが彼らを救った。いわゆる一宿一飯の仁義というものである。お上の追尾から身を守るために、侠客たちは自分たちの世界だけで通用する仁義をもっていた。それは時に家族の人情よりも優先されなければならないものであった。
 天田愚庵にしても、彼を次郎長に紹介した山岡鉄舟にしても、侠客たちの仁義の中で鍛えられた次郎長の姿に気骨のようなものを感じたのではないだろうか。
意地と度胸じゃ負けないが

清水次郎長像(梅陰寺)


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Posted by 南宜堂 at 02:17│Comments(0)幕末・維新
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