2011年02月03日
寺田寅彦の井口村事件
同じ安岡章太郎の「歴史への感情旅行」の中に、寺田寅彦について書いた部分がある。
ところで私が、寅彦に興味を覚えるようになった直接の動機は、土佐の維新史を読んでいるうちに「井口村事件」というものにぶっつかり、事件の犠牲者で切腹を命じられた宇賀喜久馬という少年が寅彦の叔父であり、また少年が切腹する際、介錯をつとめた少年の兄の利正が寅彦の父であることを知ってからだ。
井口村事件については坂本龍馬に詳しい人は先刻承知の事件だし、はじめて耳にする人は「ウィキペディア」あたりを参照していただければよくわかるので説明は省くが、この事件には安岡章太郎の曾祖父も関係しているというのである。安岡に小説に「流離譚」と題するものがあって、井口村事件を題材にしているというのを最近知った。まだ未読であるので機会をみて読んでみたい。
その「ウィキペディア」の記述で坂本龍馬や武市瑞山が深く関与しているように解説されているのは、どんな資料が根拠になっているのだろうか。池田敬正の「坂本龍馬」にはそんなことが書かれていない。これもまだ未読ではあるが坂崎 紫瀾の「汗血千里駒」の冒頭はこの井口村事件で、これには龍馬も大活躍するようなので、これが出典なのかもしれない。だがこれは小説である。高知市立自由民権記念館の資料から、その部分を引用させていただくと、
物語は、土佐・井口村のはずれで起こった、上士による郷士への刃傷沙汰から始まる。
中平忠次郎(郷士)と従者、酒に酔った山田広衛(上士)と連れとの間で諍いが起こり、山田が中平を切り捨てた。知らせを受けて駆けつけた中平の兄・池田虎之進は絶命した弟を前に慨嘆、近くにいた山田を仇としてその場で討つ。 事件は、郷士・上士間の大抗争へと発展する様相を見せ始めた。最終的には池田と中平の従者の切腹により収束するが、郷士たちにとっては土佐藩における自分たちの差別的待遇に対する積年の不満を再認識する場となった。 切腹の現場に居合わせた池田の親友・龍馬は、その血汐に自分の刀の下緒を浸し、悠然とその場を去る。
井口村事件の歴史的な事実というのもこんな形でできあがっていくのである。安岡はこんな風にも書いている。
客観的な資料の裏づけなどといっても、これがどの程度に可能なものか、実際には資料の読み違えということも避け難いのではないだろうか。
実弟の切腹の介錯をした寺田利正の息子である寅彦は、その井口村事件について小文を残しているだけである。「青空文庫」から引用する。
安政時代の土佐の高知での話である。 刃傷にんじょう事件に座して、親族立ち会いの上で詰め腹を切らされた十九歳の少年の祖母になる人が、愁傷の余りに失心しようとした。
居合わせた人が、あわててその場にあった鉄瓶の湯をその老媼ろうおうの口に注ぎ込んだ。
老媼は、その鉄瓶の底をなで回した掌で、自分の顔をやたらとなで回したために、顔じゅう一面にまっ黒い斑点ができた。
居合わせた人々は、そういう極端な悲惨な事情のもとにも、やはりそれを見て笑ったそうである。(大正十一年四月、渋柿)
事件とは直接関係ない、宇賀喜久馬の祖母のおかしくて悲しいエピソードを記す寅彦の思いはどうだったのか。土佐勤王党結成の動機となった事件といわれ、坂崎はじめ多くの人々により解説されてきた事件だが、結局寺田寅彦には老媼のエピソードだけが確からしいものであったのだろう。
ところで私が、寅彦に興味を覚えるようになった直接の動機は、土佐の維新史を読んでいるうちに「井口村事件」というものにぶっつかり、事件の犠牲者で切腹を命じられた宇賀喜久馬という少年が寅彦の叔父であり、また少年が切腹する際、介錯をつとめた少年の兄の利正が寅彦の父であることを知ってからだ。
井口村事件については坂本龍馬に詳しい人は先刻承知の事件だし、はじめて耳にする人は「ウィキペディア」あたりを参照していただければよくわかるので説明は省くが、この事件には安岡章太郎の曾祖父も関係しているというのである。安岡に小説に「流離譚」と題するものがあって、井口村事件を題材にしているというのを最近知った。まだ未読であるので機会をみて読んでみたい。
その「ウィキペディア」の記述で坂本龍馬や武市瑞山が深く関与しているように解説されているのは、どんな資料が根拠になっているのだろうか。池田敬正の「坂本龍馬」にはそんなことが書かれていない。これもまだ未読ではあるが坂崎 紫瀾の「汗血千里駒」の冒頭はこの井口村事件で、これには龍馬も大活躍するようなので、これが出典なのかもしれない。だがこれは小説である。高知市立自由民権記念館の資料から、その部分を引用させていただくと、
物語は、土佐・井口村のはずれで起こった、上士による郷士への刃傷沙汰から始まる。
中平忠次郎(郷士)と従者、酒に酔った山田広衛(上士)と連れとの間で諍いが起こり、山田が中平を切り捨てた。知らせを受けて駆けつけた中平の兄・池田虎之進は絶命した弟を前に慨嘆、近くにいた山田を仇としてその場で討つ。 事件は、郷士・上士間の大抗争へと発展する様相を見せ始めた。最終的には池田と中平の従者の切腹により収束するが、郷士たちにとっては土佐藩における自分たちの差別的待遇に対する積年の不満を再認識する場となった。 切腹の現場に居合わせた池田の親友・龍馬は、その血汐に自分の刀の下緒を浸し、悠然とその場を去る。
井口村事件の歴史的な事実というのもこんな形でできあがっていくのである。安岡はこんな風にも書いている。
客観的な資料の裏づけなどといっても、これがどの程度に可能なものか、実際には資料の読み違えということも避け難いのではないだろうか。
実弟の切腹の介錯をした寺田利正の息子である寅彦は、その井口村事件について小文を残しているだけである。「青空文庫」から引用する。
安政時代の土佐の高知での話である。 刃傷にんじょう事件に座して、親族立ち会いの上で詰め腹を切らされた十九歳の少年の祖母になる人が、愁傷の余りに失心しようとした。
居合わせた人が、あわててその場にあった鉄瓶の湯をその老媼ろうおうの口に注ぎ込んだ。
老媼は、その鉄瓶の底をなで回した掌で、自分の顔をやたらとなで回したために、顔じゅう一面にまっ黒い斑点ができた。
居合わせた人々は、そういう極端な悲惨な事情のもとにも、やはりそれを見て笑ったそうである。(大正十一年四月、渋柿)
事件とは直接関係ない、宇賀喜久馬の祖母のおかしくて悲しいエピソードを記す寅彦の思いはどうだったのか。土佐勤王党結成の動機となった事件といわれ、坂崎はじめ多くの人々により解説されてきた事件だが、結局寺田寅彦には老媼のエピソードだけが確からしいものであったのだろう。
Posted by 南宜堂 at 12:26│Comments(0)
│幕末・維新
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