2013年09月09日

愚庵と千葉卓三郎

 愚庵にとってこのニコライ神父の神学校は安住の場所ではなかった。というのも、愚庵はギリシャ正教に帰依して神学校に入ったのではなかったからだ。
「されど儒教主義の耳もてこの教派の説を聞くことなれば一つも承服するあたはず。重立たる人々に夜ごと呼び出されてきびしく説諭せらるれども、なかなか屈伏せざるのみか、果は打腹立ちて激論に人の眼を驚かす事さへあり。三、四ヶ月かかる体にてありけめが、一日同校の安藤憲三、吉嗣逹太郎、熊谷逹次郎の三氏密かに五郎を招き、偖も御身如何なればかくまで頑ななるぞ、もし誠に信教の念なくんば、などて速かに他に行かざると深切に云ふに、五郎答へて、さればそれがしもかかる所に長くあらんこと心苦しくは候へども、土地不案内の上身は貧なり、外にたよるべき所なきままに恥しくも忍びをるなりと」
 愚庵はなかなか頑固であったようだ。山本琢磨が何日もニコライ神父のもとに通いつめて入信したのに対し、愚庵は回りから説諭されても激しく反論したという。それならばここにいないで他にいったらと、これは親切で忠告したのだろうが、それに対して愚庵は、その通りなのですが金がなくてどこにも行けないのですと正直に打明けている。
 この愚庵の一途さと、またなにもかも包み隠さずさらけ出すという率直さが、その後も出会う人ごとに彼に手を差し伸べなければならないような思いにさせたのではなかったろうか。
 この神学校には、愚庵と同じように故郷を食い詰めて、東北の地から出て来た青年がいた。仙台藩領栗原郡の郷士千葉卓三郎である。
 卓三郎は明治維新の時は17歳であった。12歳の時から戊辰戦争に出陣するまで、大槻磐渓の塾で学んだ。盤渓は有名な蘭学者大槻玄沢の子で、文久2年に仙台藩に召し抱えられ、藩校養賢堂の学頭副役をつとめていた。蘭学、儒学両方の教養を積んだ碩学で、開国論を主張していた。
 卓三郎は愚庵よりは1歳年上である。戊辰戦争では白河口に出陣し敗走している。敗残の身で故郷に帰ってみれば、藩は取り潰しになっており、卓三郎は行き場を失ってしまう。
 東北各地を放浪したすえ、ニコライ神父の声望を頼って上京した。放浪の中で、ギリシャ正教の教えに出会ったのかもしれない。この駿河台の神学校で、愚庵と卓三郎が言葉を交わすような関係であったかということはわからない。しかし、二人は同じ東北に生まれ、戊辰戦争を経験し、賊徒として明治を生きなければならないという同じ宿命を背負っていた。
 卓三郎は後に五日市で民権主義の憲法草案を起草することになる。愚庵はといえば、明治11年に侠客清水次郎長の食客となるのだが、そんな先の運命はこの時の二人は何も知らない。


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Posted by 南宜堂 at 09:52│Comments(0)幕末・維新

 
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