2009年05月30日

楠正成の身分

 明治維新の時でさえ、維新を推進しようとする勢力は平氏を名乗ったということを聞きました。ことの真偽は改めて検証しなければならないものの、わが国の武家政権の伝統として、源平の政権交代というのが天命のようにいわれてきた時代があります。
 源頼朝の鎌倉幕府にはじまり、執権として君臨した北条氏は平氏、次の足利は源氏で、織田信長は平氏、徳川家康は源氏というふうにです。その徳川氏を襲うのだから平氏であるということなのでしょう。
 足利尊氏にしろ、徳川家康にしろそんな大義名分により征夷大将軍に任ぜられたということなのです。そんな源平による政権交代という伝統に敢然と否を叫び、天皇親政を目指した天皇がいました。後醍醐天皇です。
 その後醍醐天皇のもとで縦横の活躍をする楠正成親子や児島孝徳は、由緒正しい源平の嫡流でなどありません。楠氏は河内の悪党の出自だといわれています。
 乱世にあって、奸臣を討って天皇のために尽くす臣は、正統な家柄の武士からではなく、名もない忠義心に篤い楠正成のようなものであるべきということなのでしょう。
 これは吉田松陰が唱えた「草莽崛起」(民が身を起こして国事に奔走すること)に通じるとしたのは、兵藤裕己氏です。(「太平記読みの可能性」)草莽の志士たちの思いと行動は奸臣を乗り越え、直接天皇と結びつくことの正当性を楠正成の故事に求めることができたのです。


同じカテゴリー(真田十勇士)の記事画像
幸村の虚像と実像
真田幸村と楠正成
上田合戦
真田信之12
真田信之 7
真田信之 6
同じカテゴリー(真田十勇士)の記事
 真田日本一の兵 (2013-06-09 00:17)
 信之最後の戦い (2013-06-08 00:32)
 もうひとつの真田三代記 (2013-06-07 00:14)
 真田信之の戦い (2013-06-05 22:27)
 さだめなき浮世に候へば、一日さきは知らず候。 (2013-06-04 22:53)
 信濃一国を与えてもよい (2013-06-03 23:52)

Posted by 南宜堂 at 00:51│Comments(0)真田十勇士

 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。