2009年06月10日

真田氏経営の軍需産業

 上田市国分のしなの鉄道信濃国分寺駅の近くには、信濃国分寺史跡公園が広がり、資料館も建てられている。国分寺は、天平13年(741)の聖武天皇の詔により建設されたものだが、信濃国分寺もその頃の創建であると推定される。
 ということは奈良時代、信濃の国の国府は上田近辺にあったということになり、ここが信濃の国の都であったわけである。このことと真田氏がどのように結びついてくるかというと、国府近くにあったとされる国営の牧を通してである。
 信濃史学会の会長であった一志茂樹博士と上田・小県誌編集委員会・真田町教育委員会は、昭和51年から3年間にわたって真田町内を調査した結果、真田氏の出自について興味深い結果を発表している。
 信濃の国の国府に付属して軍事用あるいは運搬用の馬を飼育するための国営の牧が真田町周辺に置かれていたのではないかというのである。
 その根拠として、「真田町やその周辺に牧の平という地名がいくつか見られること」「駒形神社が真田町の山家神社境内と、四阿山頂近くの群馬県側にあること」「菅平に夏季放牧の管理者の住居跡と見られる遺跡が発見されたこと」などをあげている。
 要するに、国営の牧が真田の地にあり、菅平や四阿山の麓、群馬県の吾妻地方などが放牧地として当てられていた。そしてこの牧の経営に当たっていたのが「滋野三家」の子孫である真田氏であったというのである。
 一志博士らの報告はここまでだが、この馬の放牧は真田幸隆が登場する戦国時代にまで受け継がれていて、この地方は良馬の産地として知れ渡っていたのではないか。当然のことながら、戦乱の時代になると馬は必需品である。武田信玄が真田に注目したのは、現代でいえば軍需産業ともいうべき、真田の軍用馬の生産技術ではなかったかと思われるのだ。


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Posted by 南宜堂 at 09:11│Comments(0)真田十勇士

 
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