2009年06月14日

禰津の巫女宿

 「信濃国小県郡禰津村が、江戸期三百年を通じて、我国で随一の巫女村(みこむら)である云々」とは、民俗学者中山太郎の「日本巫女史」で報告されていることであるが、この禰津村は真田の里に隣接している。
 この禰津村の古御館(ふるみたち)というところには、明治になるまで数十戸のノノウ宿(巫女宿)があって、男は主に農業に従事し、女は巫女として呪術を行っていた。彼女らは毎年正月が過ぎると各地に出稼ぎに出る。その時夫は荷持(にもち)といって女たちと行動をともにした。老人や子供はもっぱら留守番をしていたという。
 各戸ではノノウ(巫女)を数人から数十人抱えていた。彼女らは抱え主が旅先から貰ってきたり安い金で買ってきたという。その年齢は十才前後から十五才前後であった。抱え主はそんな少女たちに三年から五年ほどかけて巫女の所作を仕込んだ。
 このようにして禰津は江戸時代日本一の巫女村として知られるようになったのだが、その始祖は戦国の武将望月盛時の妻千代女であった。望月盛時は武田信玄の甥であったが、有名な永禄四年の川中島の戦いで討ち死にした。残された千代女に信玄は甲信二国の巫女頭としての朱印状を与えられ、禰津の地で巫女の養成をはじめた。
 「ウィキペディア」では更に千代女がは甲賀流忍術の流れを汲む名家・望月家の血族であることから、呪術だけではなく、忍術、護身術、更に相手が男性だった時の為に性技まで教え込んだとしている。歩き巫女は全国何処へでも自由に行けたため、「関東から畿内を回って口寄せや舞を披露し、時には売春もしながら情報を収集し、ツナギ(連絡役)の者を通じて信玄に逐一報告した。」つまり、信玄の情報収集に彼女らが使われたというのである。
 さて、その真偽はどうなのだろうか。情報好きの信玄としてはいかにもやりそうな話である。しかも、千代女が甲賀流の名家、佐久の望月氏から別れた甲賀望月氏の出身だというのである。話としてはできすぎているような気がする。千代女がはじめた巫女道場と江戸時代の巫女宿とはどうも発生からいって同じ根のものとは思われないのだ。
 望月千代女が禰津の歩き巫女のはじまりであるということの資料について当たったわけではないので、はたしてそんな資料が存在しているのかからして不明なのだが、仮に千代女が禰津で巫女の養成を行ったにしても、それ以前からこの地に巫女は存在していたのではないだろうか。
 歩き巫女は山伏と組んで旅をし、各地で口寄せを行ったのだという。憑依した巫女に問いかけ、巫女の言葉を伝える相方が必要であったのだ。山伏といえば、真田領に四阿山の山伏がいる。
 前に見たように真田氏の祖滋野氏は佐久・小県一帯に広がる国営の牧の管理をしていて都との往来が盛んであった。山伏や歩き巫女も全国をフリーパスで通行できるという特権を有していた。真田氏も含む滋野一族というのは、山深い信濃の国にありながら、このように全国に開かれた窓を持っていたのではないかということが推測される。


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Posted by 南宜堂 at 00:55│Comments(0)真田十勇士

 
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