2009年07月08日

真田が見た白河決戦

 「石田三成は野心家であった。」と「真田三代記」には書かれています。この幻の白河決戦も、「真田三代記」ではまったく異なる様相を呈します。事あれば天下を窺おうという野心を石田三成は抱いていたというのです。事あればというのは豊臣秀吉の死後のことを指すのでしょう。
 そのために淀君に取り入り、知謀の大名たちと深く交わったとあります。なかでも、上杉景勝の重臣である直江兼続とは肝胆相照らす仲であり、二人の間にこんな会話が交わされたといいます。「ともに立って家康、利家を討ち滅ぼしましょう。そうすれば天下は石田様の意のまま」なにか、悪代官と越後屋のような会話です。
 秀吉の死後、三成は兼続と連絡を取り、家康打倒の兵を挙げさせます。それに対し、家康は豊臣秀頼の名において、上杉討伐に東下するのです。
 真田昌幸は太閤秀吉の恩義に報いるのはこの時と、息子の信幸、信繁と共に家康の宇都宮の陣に駆けつけるのです。
 「真田三代記」は三成、兼続を正義とはしていません。野心をもって天下を窺うものと表現しています。一方の家康についても義があるとはしていません。秀吉亡き後の覇権争いという風に描いているのです。
 さて、この後石田三成挙兵の知らせが家康の陣に届きます。家康は諸侯を集め、三成を討つことを告げます。一同今は家康につくことが得策と家康と行動を共にしますが、真田昌幸・信繁親子だけは「これは家康の奸計」であるとして兵を引き上げ上田に帰ります。この時長男である真田信幸は家康につくことを決め、家康のもとに残ります。


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Posted by 南宜堂 at 17:13│Comments(0)真田十勇士

 
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