2009年08月13日

真田の郷へ

 旧北国街道、現在の国道18号線は、千曲川に沿うように上田と長野を結んでいる。昔も今もこの道がなだらかで歩きやすい道だったと思うのだが、松代藩士佐久間象山は、地蔵峠を越えて上田の活文禅師のもとに勉学に通ったのだという。
 松代から上田の城下に行くためには確かに地蔵峠を越える道が距離的には近い。しかし、地蔵峠(標高860メートル)までは相当にきつい登り坂である。昔の人というのは山道をそれほど苦にしなかったのだろうか。
 車の時代となった現代では、峠道は苦にならないから、長野・上田間の最短距離の道として、地蔵峠越えをする車が多い。

 真田氏発祥の地を見たいと思った。かつての小県郡真田町(現在の上田市真田)は、地蔵峠の上田からの登り口に位置する町である。そんなわけで、真田に行くには、地蔵峠越えが最短なのだが、菅平を越えて行く事にした。かつての保科道である。長野から千曲川を渡り、川田、保科と登りが急になる。冬期間は通行止めになる道である。
 菅平を通ったのは、古代ここが馬の一大放牧地ではなかったかという説を自分の目で確かめたかったからである。菅平高原は冬はスキー場として夏は大学のラグビー部の合宿地として全国的にその名が知られている。標高1000メートルを越える冷涼で広大な高原に馬が放牧されていたという事は十分に頷ける説である。
 この説を唱えているのは、故一志茂樹を中心とする東信史学会の人々である。小県地方に国府が置かれていた時代、国府直属の国牧が真田の地に置かれていたのではないか。それは、牧ノ平という地名が真田地区には数多く残っていること、また牧につきものの駒形神社が真田にある事などから想定できる。
 この真田にあった国営の牧の経営に当たったのが大伴氏の一族であり、真田氏はその流れを汲む豪族ではないかというのが一志氏らの推定なのである。
 しかし、一般には真田氏は小県の名家海野氏の一族であるといわれ、海野氏はまた京から下向した滋野氏の末裔であるという事になっている。真田氏が歴史に名を現すのは、真田幸隆の代になってからである。江戸時代、真田家が定めた系図によると、海野宗家を継いだ幸隆が、真田の地に住むようになり真田を姓にしたという事になっている。
 この記述は歴史的な事実と矛盾する。すなわち、天文10年、武田・諏訪・村上連合軍に攻められた海野氏は、海野平の戦いで敗れ、当主である棟綱は、一族の真田幸隆とともに上州に逃れたのである。このとき、海野家の当主は棟綱であり、真田家の当主は幸隆であるのだ。そんな矛盾から、棟綱の娘婿が幸隆であるという説が現在では有力である。
真田の郷へ


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Posted by 南宜堂 at 10:46│Comments(0)真田十勇士

 
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