2009年09月12日

猿飛佐助の誕生 2

 この当時盛んになっていた速記講談に山田敬は目を付けたのである。玉田玉麟の講談を速記して出版しようという試みであった。それは、玉麟を何とか有名にしたい、真打にしたいという思いからだった。
 敬がそのことを頼みに行ったのは第一人者の丸山平次郎ではなく、彼に次ぐ実力者の山田都一郎であった。丸山はすでに出版社、新聞社から引く手あまたでとても入り込む隙はなかったということもあったが、敬は山田都一郎が吝嗇であると聞き及んでいて、都一郎ならばなんとかなると思っていたのだという。
 敬がどのような術を弄して頼んだのか、都一郎は玉麟の講談を速記することを承諾した。玉麟は最初はそういうことを邪道として嫌っていたようだが、敬の強引さに押し切られる形で講談の速記をはじめたのである。
 敬はさらに、山田都一郎を玉麟の速記者として繋ぎ止めておくために<今治に置いてきた実の娘寧を都一郎と結婚させようと企んだ。寧は結婚して一女をもうけていたが、敬の不倫が原因で離縁され、実家に戻っていた。
 敬の出奔の後、日吉屋は破産して、又助は失意のうちに病死していた。残された弟たちを、寧は女手一つで育てていた。そんな時の敬の誘いであった。
 寧は母親を許すことができず、最初は拒んだようだが、結局は敬の強引さが勝ったのか、結婚を承諾している。
 こうして敬の企てはすべてうまく運び、玉麟の講談本は次々と出版され、玉田玉秀斎を襲名することができた。


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Posted by 南宜堂 at 23:59│Comments(0)真田十勇士
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