2009年09月21日

猿飛佐助の誕生 7

 立川文庫は当時のどんな人たちによって読まれていたのだろうか。いわゆる松之助映画について筒井清忠氏は次のように分析しているが、これはそのまま立川文庫の読者についても当てはまるのではないかと思う。「『松之助映画』は現在から見ると『幼稚』としかいいようのないものではあるが、人物が途中で消えてしまうというような映像が当時の少年少女にとっては大変珍しかったということを考慮しておく必要があるであろう。『松之助映画』を主に受容したのは比較的年齢が低い層であり、ファンには丁稚勤めをせざるをえないような下層階級の人たちが多かったのである。」(『時代劇映画の思想』)
 立川文庫の読者も「比較的年齢が低い層であり、ファンには丁稚勤めをせざるをえないような下層階級の人たちが多かった」ということはいえると思う。商業の町大阪でもてはやされたのにもそんな背景が考えられる。
 筒井氏のこの本の中で、一方には外国映画という質的に高い映画があり、松之助映画はそれに比べると質的には劣っており、やがて松之助映画は大衆にも飽きられていったということを記している。そして、それに代わるものとして牧野省三が大正11年に製作した『実録忠臣蔵』を例にあげている。この映画では松之助映画にはなかった写実的な立ち回りがあり、それが新しい感覚として大衆の支持を得たのであるという。
 立川文庫も作品内容のマンネリズム、リアリズムに欠けるその筋立て、相変わらずの勧善懲悪の繰り返しによって読者に飽きられていった。真田十勇士の物語は、とても現代では読むに堪えられる物語ではない。猿飛佐助の忍術も、現代のリアリテイあふれる忍者からは荒唐無稽なものとしか思えないだろう。
 それでは立川文庫を、大正期の少年たちを熱狂させた一時的なブームとして片付けてしまっていいのだろうか。私自身の個人的な感情としては、これから述べる立川文庫の終焉の模様を考えるとき、そうしてしまうにはあまりにも哀れという思いがある。
 私は最近杉浦茂の漫画「猿飛佐助」を読んだ。子供の頃雑誌に連載されていてその時読んで以来であった。杉浦漫画のおかしさは私には伝える力がないのだが、読んだ後の楽しい気分、わくわく感というのは格別のものだ。それは立川文庫と同質なものではないかと私には思える。
 立川文庫が時代を超えて評価されるものであるとするならば、そういったナンセンスな面白さからではないかと思うのだが、今の私には力足らずでそこまでは断言することはできない。


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Posted by 南宜堂 at 00:23│Comments(0)真田十勇士
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