2009年09月21日

猿飛佐助の誕生 8

 立川文庫は、玉田玉秀斎と山田一家の共同作業に作業によって生み出された。その現場は現在のアニメのプロダクションのようなものであったのではないだろうか。その様子を寧の娘である池田蘭子は『女紋』という小説の中で描写している。
「みんなの原稿書きは、まず朝の7時ごろからはじまる。それから夜の9時ごろまで、机に向かったが最後、もう傍見をする暇もないというふうだった。
 原稿用紙は玉秀斎から出た。1冊分300枚。これに書き損じとして10枚だけが余分に渡された。だれも1枚とて書き損じなかった。1冊書いて、みんなの手取りは僅かに7円というこまかいものだった。書き損じ用の原稿用紙は大切に溜め込んでいた。参考書といっても机の上に『道中地図』と『武鑑』が置いてあるだけ。1日50枚から60枚。日によっては70枚も書き飛ばさねばならない。文を練る暇など絶対にないのだ。筋立てをしている暇さえも乏しい。」
 立川文明堂から払われる原稿料は1冊14円で買い取り制であった。そのうちの7円が執筆者に払われた。印税ではなかったのでいくら版を重ねても収入は増えなかった。しかも表紙にも奥付にも執筆者の名前が出ることはない。大概が雪花山人とか野花山人という架空の名が記されているだけであった。
 立川文庫は大正8年の玉秀斎の死によって事実上の終焉を迎える。それ以前に創造力の枯渇によりもう新しいものを作り出す能力は失われていたようだ。残された酔神たちはそれぞれ元の仕事に戻っていったようだ。酔神は歯科医として昭和17年に没している。
 玉秀斎は生前、立川熊次郎に銅像を建ててやると言われていたという。猿飛佐助が一番売れたので、忍術を使っている銅像を建ててもらおうかと、講談師仲間の旭堂南陵に言ったことがあるという。結局この話はいつのまにか立ち消えになってしまったようである。もともと立川にそんな気などなかったのかも知れない。
 だが、それは玉秀斎の死後80年以上の時を経て、今治駅前に猿飛佐助の像となって出現した。消えてしまった立川文庫の栄光を思い起こさせるモニュメントが、山田一家の故郷である今治に建てられたのは感慨深いものがあろうが、肝心の玉秀斎、どこに葬られているのかもわからないのだという。山田家の墓に入ることもなく、葬儀の後親族が遺骨を引き取ったということなのだが、その後の行方がわからない。
[猿飛佐助の誕生 おしまい]
この稿を書くにあたり、池田蘭子『女紋』、足立巻一『立川文庫の英雄たち』を参考にさせていただきました。
今治に建つ猿飛佐助像
猿飛佐助の誕生 8


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Posted by 南宜堂 at 11:09│Comments(0)真田十勇士
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