2009年11月10日
善光寺町
江戸時代の、長野村と善光寺町との関係というのはちょっとややこしいのだが、要するに長野村のうちで、善光寺を中心とした町場が善光寺町とよばれていたのである。
そこは文字通り善光寺の門前町として発展してきた。善光寺町がいつごろから町としてのにぎわいを見せるようになってきたのか。はっきりしたことはわからないが、室町時代に書かれた『大塔物語』の中に「およそ善光寺は三国一の霊場、生身の阿弥陀様の浄土であり、日本の港とも言えるほど人の集まるところであって、門前市をなしている。」というくだりがある。院坊が整備され、僧侶や仏師などの職人が住んでいたという記録も残されている。
善光寺の創建については、今年の春刊行した「こんなにもある善光寺のなぞ」(一草舍)に書いたので重複は避けるが、遅くとも奈良時代には建てられていたようである。平安時代には都にもその名が知られていたので、その頃には門前町もできていたのではないか。
鎌倉時代、源頼朝や執権北条氏の信仰もあり、多くの参拝人が訪れていた。川中島の戦いの折には、善光寺如来が武田信玄によって甲斐に移され、一時は廃墟のようになってしまった。しかし、江戸時代になると善光寺如来もかえり、門前町は再びにぎわいを取り戻した。とりわけ大門町はその中心としておおいに栄えた。
江戸時代、善光寺町では一、四、六、九のつく日、すなわち月に一二日市が開かれていた。鎌倉時代から市は開かれていたようだが、規模が大きくなり十二斎市が開かれるようになったのは江戸時代からである。市ははじめ善光寺に近い大門町、東町、西町で開かれていたが、時代が下るにしたがって、善光寺町全体で開かれるようになった。
大門町はまた、善光寺の参拝人や北国街道を旅する人たちの宿場町としても栄えてきた。江戸時代の宿場は、旅人を泊める宿としてだけではなく、荷物の中継点として、つまり問屋としての役割も担っていた。
善光寺町では、伝馬役をつとめる大門町だけが宿を営む権利を持っていた。しかし、他の町でも客を泊める者はあとを絶たず、宿同士の客の奪い合いもあって、常に争いのもとになっていた。特に善光寺の院坊と権堂の水茶屋との争いは大きなものであった。
院坊の場合、善光寺参詣の客だけを泊めていた。それぞれの院坊が地盤を持っていて、どこどこから来た者はこの院坊に泊まるということが決められていた。しかし、院坊の中には客引きを出して、一般の客を引き込むところがあり、大門町の宿では常に目を光らせていた。
権堂の水茶屋は元禄時代からあったが、江戸時代の後半になると三〇軒以上の水茶屋が二百人以上の女を雇って商売をするようになっていた。これらの店も旅の客を泊めたので、大門町では再三にわたって水茶屋の廃止を訴えた。この争いは幕末まで続いた。
そこは文字通り善光寺の門前町として発展してきた。善光寺町がいつごろから町としてのにぎわいを見せるようになってきたのか。はっきりしたことはわからないが、室町時代に書かれた『大塔物語』の中に「およそ善光寺は三国一の霊場、生身の阿弥陀様の浄土であり、日本の港とも言えるほど人の集まるところであって、門前市をなしている。」というくだりがある。院坊が整備され、僧侶や仏師などの職人が住んでいたという記録も残されている。
善光寺の創建については、今年の春刊行した「こんなにもある善光寺のなぞ」(一草舍)に書いたので重複は避けるが、遅くとも奈良時代には建てられていたようである。平安時代には都にもその名が知られていたので、その頃には門前町もできていたのではないか。
鎌倉時代、源頼朝や執権北条氏の信仰もあり、多くの参拝人が訪れていた。川中島の戦いの折には、善光寺如来が武田信玄によって甲斐に移され、一時は廃墟のようになってしまった。しかし、江戸時代になると善光寺如来もかえり、門前町は再びにぎわいを取り戻した。とりわけ大門町はその中心としておおいに栄えた。
江戸時代、善光寺町では一、四、六、九のつく日、すなわち月に一二日市が開かれていた。鎌倉時代から市は開かれていたようだが、規模が大きくなり十二斎市が開かれるようになったのは江戸時代からである。市ははじめ善光寺に近い大門町、東町、西町で開かれていたが、時代が下るにしたがって、善光寺町全体で開かれるようになった。
大門町はまた、善光寺の参拝人や北国街道を旅する人たちの宿場町としても栄えてきた。江戸時代の宿場は、旅人を泊める宿としてだけではなく、荷物の中継点として、つまり問屋としての役割も担っていた。
善光寺町では、伝馬役をつとめる大門町だけが宿を営む権利を持っていた。しかし、他の町でも客を泊める者はあとを絶たず、宿同士の客の奪い合いもあって、常に争いのもとになっていた。特に善光寺の院坊と権堂の水茶屋との争いは大きなものであった。
院坊の場合、善光寺参詣の客だけを泊めていた。それぞれの院坊が地盤を持っていて、どこどこから来た者はこの院坊に泊まるということが決められていた。しかし、院坊の中には客引きを出して、一般の客を引き込むところがあり、大門町の宿では常に目を光らせていた。
権堂の水茶屋は元禄時代からあったが、江戸時代の後半になると三〇軒以上の水茶屋が二百人以上の女を雇って商売をするようになっていた。これらの店も旅の客を泊めたので、大門町では再三にわたって水茶屋の廃止を訴えた。この争いは幕末まで続いた。
Posted by 南宜堂 at 10:21│Comments(0)
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