2009年11月10日

門前町長野

 古い建物が取り壊され、コンクリートのビルへの変貌が著しい長野の町にあって、善光寺の門前町らしい、落ち着いたたたずまいを見せているといわれる大門町界隈だが、専門家の調査によると、そのほとんどの建物が明治時代、大正時代に建てられたものであり、江戸時代の建物は少ないのだということである。
 町並みや建物が時代の変遷にはさからえないということの証左なのだろうが、それでも明治時代の建物がまとまって残されているというのはありがたいことだ。
 取り壊される危機というのはあった。大正末期に行われた中央通りの拡幅工事の時である。江戸時代の北国街道そのままの道筋であった中央通りを、十間幅の自動車でも行き違えるような道路にしようというもので、発展を続ける長野の町では喫緊の課題であった。
 このとき、長野の人たちが選んだのは、古い建物を取り壊して新しい建物をつくるということではなく、古い建物をそのままに後退させて道幅を広げるということであった。そのために「曵き家」ということが行われたのだが、この技術はこの時長野にはじめて取り入れられたのだという。
 この中央通りの拡幅工事は、現在の長野の町のルーツとして私には興味深いものであった。そのきっかけとなったのは1枚の地図と1冊の写真集である。大正の末から昭和のはじめにかけて出版されたこれらの地図と写真集を、私は「長野昭和初年の町あるき」「写真集 昭和のはじめ長野の町」(いずれも光風舍刊)として復刻した。
 現在も大門町界隈に残る重厚な日本家屋、「塗り家づくり」というのだそうだが、弘化4年の善光寺地震の教訓から生まれたものだった。外面の木の部分を漆喰で覆って燃えにくい構造にしてある。
 だから、江戸時代の善光寺町はまったく別の景観が広がっていたというわけである。先に書いたように、江戸時代の善光寺町は善光寺の門前町であると同時に、北国街道の宿場町であり、この地方の産物の集散地であった。
 もっと前の、武田信玄によって善光寺如来が甲府に持ち去られる以前の善光寺町はまた別の景色であっただろう。

「長野昭和初年の町あるき」「写真集 昭和のはじめ長野の町」は不幸にも売れませんでしたので、在庫がたくさんあります。長野市新田町の朝陽館荻原書店に置かせていただいていますので、興味のある方はご覧ください。
門前町長野
門前町長野


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Posted by 南宜堂 at 23:26│Comments(2)長野の町

この記事へのコメント

久しぶりに書き込みます。

「長野昭和初年の町あるき」「写真集 昭和のはじめ長野の町」
大変興味あります。

これは年末に帰った時に必ず購入させて頂きます!
トイーゴの近く(向い)の本屋さんですね。
Posted by ムギチョコ at 2009年11月12日 19:45
ムギチョコさま
コメントありがとうございます。
「長野昭和初年の町あるき」は800円で手頃なのですが、写真集は5800円と高いので、よく内容を見て検討してください。
書店の場所はおっしゃる場所です。市街地が空洞化するなか頑張って書店を続けておられます。
さきほど2000年に発行された「長野銀座いまむかし」という本を何気なく見ていたのですが、長野銀座商店街加盟の店が100軒以上あったのに今では半分以下になっているのではないかと思います。
ここに載っているダイエーもそごうもなくなってしまいましたから。
寂しいですがこれが現実ですね。
Posted by 南宜堂南宜堂 at 2009年11月12日 20:00
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