2010年11月15日

善光寺争奪戦

 川中島の戦いはまた、一面では信玄・謙信の善光寺をめぐる争奪戦でもあるといわれている。天文22年の最初の戦いで、善光寺を支配していた栗田氏は、北信濃の豪族と同様に上杉方についた。
 弘治元年の二度目の戦いでは上杉軍は、善光寺に近い城山に陣をしいた。この時、栗田氏は旭山城に逃れたのである。謙信は春日山に戻るに際して、善光寺の仏像や仏具を越後に移し、直江津の五智に善光寺を建立した。
 一方の信玄は、弘治3年の戦いにおいて、善光寺を後方の葛山城を落とし、善光寺一帯を支配した。信玄は善光寺如来を甲府に移し、やはり善光寺を建立した。栗田氏や大本願の上人も甲府に移り、善光寺はすっかり寂れてしまったのである。
 両雄がこうも善光寺にこだわったのはなぜなのだろうか。善光寺如来は、その縁起によると、三国伝来の生きた仏といわれ、古来より多くの信仰を集めてきた。創建は奈良時代と推定されるが、その後ここは多くの聖たちが立ち寄る聖地となり、彼らの力もあって、その信仰は全国に広がった。
 鎌倉幕府を開いた源頼朝は善光寺を深く信仰し、戦乱で焼けた善光寺を再建するのに力を尽くした。自らも善光寺に参拝したと伝えられ、門前町には、その伝説を伝える場所が多く残っている。
 もともとは民衆の熱狂的な信仰を集めた寺であったが、時の権力者も帰依したため、その名声はさらに強まったのである。信玄や謙信もまた善光寺如来を深く信仰した。一般に戦国時代の武将は神仏への信仰心が厚い。明日の運命も知れぬ身であったから、自らの幸運を神仏に託したのであろう。
 戦国武将たちは多く起請文というものを残している。起請文とは神仏への誓約書である。部下にもそれを書かせている。宗教的な権威を借りて、自らへの忠誠を誓わせると同時に、自分も宗教的な権威に守られることを祈るのである。だから神仏を味方につけるということは、戦いの勝利を約束するもとして重要なことであった。

 
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Posted by 南宜堂 at 18:03│Comments(0)長野の町
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