2010年11月22日

小布施の栗菓子

軽井沢のはずれ、追分で中山道から分かれた北国街道は、小諸、上田、屋代、善光寺宿を経て越後の国へと続きます。屋代からは松代、須坂、小布施、中野と山沿いに街道はのびていますが、この街道を谷街道といっていました。
小布施は、その谷街道沿いにある町です。もとは現在の中心部から北東の長野電鉄都住駅近くに六斎市が開かれており、このあたりが中心でした。
江戸時代、ここは越後椎谷藩の領地となり、六川陣屋が置かれました。六川陣屋は、長野電鉄都住駅西側の踏切を100m程南下した右手の路地を入った所に高札場と案内解説板が建てられています。
その後、谷街道の道筋が変わり、六斎市が現在の小布施町の上町、中町、横町へと移り、このあたりが町の中心となりました。現在の国道403号竹風堂のあたりです。
小布施といえば何といっても栗菓子が有名ですが、小布施で栗の栽培が行われるようになったののには諸説あります。
まずは伝説の類いなのですが、弘法大師空海にまつわるものです。諸国を回り歩いていた弘法大師が、この地に立ち寄り、小布施という名を付けたのだといいます。そして、栗の実を3粒植えました。そこから小布施の栗は広がっていったということです。
弘法大師にまつわる伝説は全国各地にあり、小布施に来たという記録もありませんから、これはもう完全に後に作られた伝説と考えていいでしょう。
室町時代の初期、荻野常倫という武将が小布施を領したとき、旧領地の移植したといわれています。確かに丹波に荻野氏という豪族はいましたが、常倫という人物については不明です。
また、本田忠勝の娘で、徳川家康の養女となって真田信幸に嫁いだ小松姫が、化粧料として栗林を賜り、以来松代藩の管轄となったともいわれております。しかし、小松姫が信幸に嫁いだのは天正14年であり、この時点で家康は天下人ではありませんでした。
確かなところでは、小布施の見事な栗林は江戸時代の初期には松代藩の「御林」となり、毎年小布施の栗が将軍家に献上されておりました。将軍家への献上が終わらないと収穫することは許されず、小林一茶の「拾われぬ栗の見事よ大きさよ」の句はそんな状景をよんだものです。
いっぽう、小布施の名物となっています栗菓子は、文化5年に現在の桜井甘精堂の先祖が「栗落雁」を製造したのにはじまります。その後、「栗羊羹」「栗鹿の子」と栗菓子のラインナップが揃っていきます。
栗の栽培は別として、菓子というのは余裕の文化です。小布施に栗菓子の文化が育っていったというのは、何よりもこの地が経済的に余裕のある土地であり、そこに住む人たちに余裕を楽しむ文化的な土壌があったからにほかなりません。このことは、かの葛飾北斎が何度もここに足を運び、長く滞在したということからもわかります。


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Posted by 南宜堂 at 03:59│Comments(0)長野の町
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