2010年11月24日

北斎、鴻山、街並み

小布施というと北斎と栗の町として有名ですが、北斎を小布施に招いたのが高井鴻山です。
鴻山は文化3年生まれ、高井家はこの地方きっての素封家であり、酒造業も営んでおりました。鴻山の祖父作左衛門は、天明の飢饉に際して高井家の蔵を開放して窮民の救済にあたりました。それが幕府に認められ苗字帯刀を許されたといいます。
文政3年、15歳のときに京都に遊学し、文化11年に父親の死去により家督を継ぐために帰郷するまで、京都そして江戸で書、絵画、和歌、国学、朱子学を学び、江戸の佐藤一斎の塾では松代藩士である佐久間象山と親交をもちました。
天保13年には83歳の北斎を小布施に招くわけですが、鴻山が北斎とどんなきっかけで知り合ったのかはわかっていません。江戸に長く滞在していた鴻山ですから、どこかで接触する機会があったのでしょう。
その後、北斎は何度か小布施を訪れ、多くの肉筆画を残しています。中でも岩松院に残る鳳凰図は、北斎89歳の作で、その迫力には圧倒されます。
高井鴻山は、北斎を小布施に招いた素封家として歴史に名を残してきたわけですが、近年になって鴻山自身の業績も研究されるようになり、画家としての側面、また明治になっては長野に学校を建設しており、信州における教育の先覚者としての側面も知られるようになりました。特に妖怪画が得意で、高井鴻山記念館に収蔵される妖怪画の迫力には圧倒されます。
北斎の訪問から100年以上もたって、小布施という北信濃の小さな町に多くの肉筆画が残されていることが知られるようになりました。昭和51年には北斎館という美術館ができ、小布施の名は有名になりました。
さらには、昭和55年には街並み修景事業がはじまり、小布施の町の様子は一変します。この事業は、当時の主体となって事業を進めた栗菓子店「小布施堂」のホームページの表現を引用させていただけば「小布施町並み修景(しゅうけい)事業は、そこで暮らす人の視点に立ち、小布施堂界隈の町並みを美しく再構築した、1980~87(昭和55~62)年の事業のこと。 行政、個人、法人という立場を違える地権者が、対等な立場で話し合いを重ね、土地の交換あるいは賃貸により、双方に利のある配置換えを果した。 国からの補助金などに頼ることなく、住む人主体で新旧建築物の調和する美しい町並みをつくる新しいやり方は「小布施方式」と呼ばれ、現在に至るまで全国から注目されている。」というものでした。
かつての小布施は、松代、須坂、中野を結ぶ谷街道沿いの埃っぽい町であったという印象があります。それが落ち着いた懐かしさを感じさせる街並みに変貌したのです。妻籠や奈良井のように歴史的な建造物を保存するというのではなく、修景するということが大きな特徴でした。
現代に江戸の生活を持ち込んでも不便なだけです。外観には和のコンセプトを生かしながらも、材料や構造は最先端のものをというのが修景事業の特徴でした。かくて、 はじめは栗菓子店とその周辺だけであった修景事業は町全体にひろがっていきました。


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Posted by 南宜堂 at 02:24│Comments(0)長野の町
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