2010年12月15日

権堂

 田面稲荷から南に下るとそこは権堂です。この通りは裏権堂通りと呼ばれています。かつての権堂は、この通りとひとつ西側の通り表権堂が賑わいの中心でした。この表権堂の通りに水茶屋ができたのが元禄年間の頃といわれています。水茶屋というのは現在では聞き慣れない言葉ですが、もともとの概念では喫茶店のようなもの、人出の多い寺社の境内などで客に湯茶の接待をしたのがそのはじまりといわれています。そのうちに美女を給仕に置くようになり、やがては売春を伴うようになったものです。
 元禄13年に善光寺町が火事で焼けた時、もともと農村であった権堂が、町に近いため旅籠のかわりに旅人を泊めるようになったのがその起こりだといわれています。
 できたのは、アーケードのある現在の権堂通りではなく、北国街道の一本東の通り、東町から鐘鋳川を越えた表権堂でした。弘化四年の善光寺地震後の復興では、更に一本東の裏権堂にも水茶屋ができておおいににぎわったといいます。
 権堂の水茶屋の繁栄ぶりは、例えば文政10年(1827)に出版された『諸国道中商人鑑』といった絵入りの本を見ればよくわかります。ほとんどの店が二階建てで、中には張見世になっている茶屋も見えます。
 時代が変わり、明治維新後の花街権堂はどうであったかというと、その実態は江戸の頃とたいして変わりはありませんでした。しかし、明治5年(1872)に「芸娼妓等年季奉公人解放令」が公布されると、様相は一変します。この法律は、いわゆる人身売買の禁止、娼妓や芸妓の解放をうたったもので、権堂の水茶屋は商売が立ちゆかなくなってしまったのです。解放令によって娼妓たちは借金も帳消しになり、自由の身となったのですが、もともと口減らしのために貧しい農村から売られてきた女たちに帰る所はありませんでした。権堂からあちらこちらに流れ、結局は春をひさぐ商売を続けるしかないものがほとんどでした。
 この解放令、人身売買という外国の批判をかわすために付け焼き刃で作られた法律でしたから、彼女らの先行きなど考慮しておらず、まったく無責任なものでした。
 解放令が出た当初は灯が消えたように寂しくなった権堂でしが、その後の度々の嘆願の結果、芸妓だけは置けることになり、権堂はふたたび以前のにぎわいを取りもどすようになったのです。


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Posted by 南宜堂 at 10:10│Comments(0)長野の町
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