2011年07月17日

捨て聖一遍

 一遍の生涯が映画になるのだという。信州は一遍には重要な地であったので、踊り念仏をはじめた佐久や、生涯に2度も参った善光寺を監督がロケハンしているのだという記事が地元の新聞に載っていた。それにしても、一遍を演じるのがウド鈴木だといわれてもイメージがわかない。あのうるさいだけのお笑い芸人がどう一遍を演じるのだろうか。
 時宗の祖一遍は生涯に2度(あるいは3度とも)善光寺に参っている。その出自は「一遍ひじりは俗姓は越智氏河野四郎通信が孫、同七郎通広(出家して如仏と号す)が子なり。延応元年己亥予州にして誕生、十歳にして悲母にをくれて、始めて無常の理をさとり給ぬ」(「一遍聖絵」詞書より)四国の豪族の御曹司であった。

 10歳で仏門に入った一遍は、建長3年太宰府にいる聖達のもとに弟子入りしている。今でいうなら中学一年生くらいの時に単身で九州まで修行に出かけたのだ。

 聖達は、浄土宗の開祖法然の孫弟子に当たり、一遍はここで父の死まで12年間を浄土教の修行に明け暮れた。父の死により伊予に帰った一遍は、還俗して河野家の家督を継いだ。

 その後、再度出家して善光寺に参籠するまで、一遍がどんな生活をしていたのかよくわかっていない。再び出家して善光寺に向かわせるような決定的な出来事があったのではないかと研究者は指摘している。河野氏といえば、没落したとはいえ、四国では有力な武士の頭領だ。一遍が家督争いに巻き込まれ、人を殺傷するような事態になったのではないか、不確定な資料ながらそんな記述をしている古文書もある。

 また、「北条九代記」という書物には、一遍が在俗の頃のエピソードとして次のように記している。一遍には二人の妾がいた。いずれも美人で気立てがよく、一遍も二人を平等に愛したので、二人の仲はとても睦まじかった。ある日二人は碁盤を枕に仲良くうたたねをしていたが、見るとふの二人の髪がたちまち小さな蛇に変身し、お互いに食い合っている。一遍はそれを見ると刀を抜き、蛇に斬りつけた。一遍は自らのこの行為を悔い、「これより執心愛念嫉妬の畏るべきことを思ひ知り、輪廻の妄業因果の理を弁へ発心して比叡山に登」ったというのだ。

 いずれも伝説とでもいっていいような話で、そんな事実があったのかどうかはわからないが、善光寺に向かう一遍の心の中には、俗世間の物欲や愛欲に振り回され、どうやっても救いようのないような魂が宿っていたのではないかと思われる。

 時衆と呼ばれた一遍に付き従う人々、彼ら聖の群れもやはり共同体から離れ、漂泊して歩く人々であった。彼らの日常の過酷さというのは、現代に生きる私たちには想像するしかないわけだが、泊まるところなどろくにない日々、食べるものにしたところで毎日ありつけるものではない。旅の疲れから病に倒れる者もいたようだ。そんな脱落者は、そのまま捨て置かれ、その場で死を待つより術はなかった。そんなにしてまで、なぜ彼らは一遍とともに旅の日々を送ったのか。

 一遍は自らの愛欲に苦しみ家督争いの中に巻き込まれ、捨て聖として生きる道を選んだのだが、彼に付き従う人々も現世のさまざまな葛藤の中で時衆の群れに身を投じたのだろう。そんな彼らにはたして救いはあったのか。捨てて捨てて、毎日をただひたすら歩き続ける。その果ての死、往生こそが究極の救いだったのかもしれない。しかし、一遍はその死さえも安らかなものとはとらえていなかった。彼は死にさいして「野にすててけだものにほどこすべし」と言い残したといわれている。
 一遍やその弟子たちほど過激ではないにしろ、「世捨て」というのは日本の映画・芝居・小説などの中では常に大きなテーマである。西行や芭蕉、卑近なところでは小林旭の渡り鳥シリーズとか渥美清の「男はつらいよ」のシリーズは、その最たるものだろう。私たちの心の奥の方には今の生活を捨ててどこか遠くの地をさすらってみたいという衝動が潜んでいるようなのだ。

 人間にはもともとが旅を日常とするような遺伝子が存在していて、誰もが旅に出たいとか遠くに行きたいとかいうような感情を持っているらしいということが最近わかってきたのだという。それは決して現実逃避へのあこがれというものではなく、人類の太古の経験に根ざしているようなのだ。人類はもともとは食料を得るために、どこまでも獲物を追って旅していたのであり、栽培を覚え定住生活をするようになっても、そういう性癖が時々顔を出すのだという。

 西行にしろ、一遍にしろ、芭蕉にしろ、山頭火、放哉皆然り、旅にその生涯を終えている。そして彼らの生き方を慕うものは決して少数派ではない。もちろん、彼らが世を捨て旅に出なければならなかった現実的な動機というのはあるのだろうが、第一義的には「人は皆いずこよりか来ていずこへか去っていく運命にある」ということだったのではないだろうか。


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Posted by 南宜堂 at 23:33│Comments(0)長野の町

 
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