2012年03月16日

幸村の実力

真田幸村は34歳で隠居を強いられたようなものである。いかに人生50年の戦国時代でも早すぎる。
九度山での幸村はすることがなかった。まさか、内職の真田紐作りを殿様自らがするわけにもいかない。風流を楽しむにも、手元不如意、経済的に困窮している身とあってはなかなかそれもままならなかっただろう。
赦免ということを期待しなかったわけではないだろうが、九度山での生活が長くなるにつれ、そんな望みも実現の可能性の低いものに思えてきた。
徳川家康が関ヶ原で勝利し、征夷大将軍となり、やがて子の秀忠にその職を譲るということがあって、将軍職は徳川が世襲するのだということを世間に印象づけた。世間もそれを認め、世の中は平和に向かって収束していくようであった。豊臣秀頼は大坂城にあって、いまだに徳川の主君ではあるとはいうものの、その力の差は歴然としていた。
幸村にはこのまま九度山で朽ち果てる以外の道はなさそうであった。34歳であった幸村も、50に手が届く年になっていた。
慶長19年、後世有名な京都方広寺の大仏開眼供養における鐘銘事件をきっかけに、徳川と豊臣の間は急速に悪化した。戦いを覚悟した秀頼は。かつての豊臣恩顧の大名や武将に勧誘の書状を送った。九度山の真田幸村にも誘いの書状は届いた。その条件は50万石を約束されたともいわれ、破格の待遇であった。
真田幸村は慶長19年10月9日、九度山を出て大坂城に向かった。その入城は決して威風堂々というわけにはいかなかったであろう。配流生活が長く、経済的にも逼迫していたこともあり、付き従う家来は多くはなかった。
はたして幸村は50万石に値するほどの実力をもった武将であったのだろうか。後世語り伝えられる講談や立川文庫の豪傑譚を知るものとしては、50万石でも安すぎるような気がするが、先にも述べたように幸村は34歳まで部屋住みの身であり、当時の豊臣方の重臣はその実力は知らなかったはずである。
それならなぜという疑問は当然ある。それは父と祖父が類い希なる力の持ち主であったからであった。祖父幸隆と父昌幸は武田家の重臣として多くの戦いに活躍した。武田氏滅亡後は実力大名の間を渡り歩いて、小県と沼田の領土を守り通した。徳川家康を翻弄した神川の戦いは有名で、近くは関ヶ原に向かう秀忠軍とも互角に対峙している。
そんな昌幸の子である幸村もまた戦の巧者に違いないと当時の大名たちからは思われていたとしても不思議ではない。


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Posted by 南宜堂 at 03:13│Comments(0)真田十勇士

 
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