2012年06月20日

戊辰戦争、松代藩の場合

 松代藩の場合は、早くから勤王の意志を明確に打ち出していたようで、藩論をリードしたのは佐久間象山のライバル長谷川昭道である。
 慶応三年十月十三日、徳川慶喜は京都二条城に幕府の役人と諸藩の重臣を集め、大政奉還の可否を問うた。松代藩からは京都藩邸留守居役長谷川昭道が列席して賛意を表明した。十月十四日、慶喜は大政奉還を朝廷に上奏した。翌日の十五日、朝廷は慶喜の上奏を受理し、ここに徳川幕府は二百六十年の歴史に幕を下ろした。
 慶喜が大政奉還を上奏した同じ日、朝廷から薩摩・長州両藩に倒幕の密勅が下った。十二月九日、「王政復古」の大号令が発せられ、その夜には小御所で総裁・議定・参与による会議が開かれた。この席上で徳川慶喜の辞官・納地が決められた。これに納得しない慶喜は翌慶応四年一月一日、反対に「討薩の表」を掲げて京に上ろうとしたが、三日伏見で両者は戦闘となった。「鳥羽伏見の戦い」である。
 松代藩にはこの間、佐幕派の諸藩から誘いがあったが、藩論は長谷川昭道らの主導でいち早く勤王に決していたため、この誘いには応じなかった。戦いは錦旗を掲げた官軍の勝利に終わり、将軍慶喜は大坂城を脱出し、江戸に逃げ帰った。一月十九日、松代藩主真田幸民は徳川慶喜から甲府城代を命じられたが、これを拒んでいる。二月四日には太政官より官軍につくすようにという達しがあり、八日には信濃十藩の触頭を命じられた。
 明治元年三月十三日と十四日に江戸高輪の薩摩藩邸で西郷隆盛と勝海舟の会談が行われ、江戸城の無血開城が決まった。この後、戦線は奥羽へと移っていくのである。松代藩は先に記したようにいちはやく勤王を鮮明にしていたので、信濃諸藩の触頭として各地に転戦した。二月三十日、甲府城守衛の命令が松代藩に下り、七九六名が甲府に赴き任務にあたった。しかし、江戸を脱走した古屋作左衛門を頭とする衝鋒隊七〇〇人が、越後から飯山城に侵攻してきて北信濃が不穏な情勢となってきたため、甲府守衛の兵はこちらに向けられた。
 四月二十五日、飯山城に籠もる衝鋒隊に対して松代をはじめ信濃諸藩の攻撃が一斉に開始された。少人数の衝鋒隊はたまらず飯山城を脱出、越後方面に逃れた。松代藩兵はこの後、北越戦線・会津戦線と転戦した。会津鶴ヶ城の攻略戦においては近代兵器による砲撃で敵を圧倒し、会津藩士をして「薩摩・真田に大砲なくば、官軍破るも何のその」と嘆かせたという。
 九月二十二日、会津藩の降伏により戦闘は終結するのだが、この間松代藩の戦死者五七人、負傷者八五人に上った。松代藩の戦死者のうち二七人が藩士の中でも最下層の卒族のものたちであった。十月六日に総督府から帰休命令が下り、その月の内に全兵が松代に引き揚げた。

 長谷川昭道が京都留守居役となって上洛したとき、佐久間象山はすでに京都に来ていた。昭道としては敬意を表するつもりであったのだろう、象山のもとを訪問している。しかし、象山は面会を拒絶した。このとき象山はひとつの腹案をもって活動をしていた。天皇を一時彦根に御動座させ、ついには江戸に迎え入れ、江戸への遷都するということで、そのことを昭道に覚られるのを嫌ったのかもしれない。
 この象山の江戸遷都計画なるものは、ほとんど歴史書を見てもその記述が無く知られてはいないのだが、松本健一氏は松代藩家老の真田桜山の「一誠斎紀実」から引用してそのことを具体的に述べている。「一朝彦根城へ遷幸の後は、遂に皇居を東国に遷し、天子を挟み西諸侯の力を抑え、幕府を佐けて天下に号令せんと、会津を始め、其他数名の幕吏と密議して、此挙に及びしなり。」
 これを見る限り、象山の公武合体論は完全に幕府寄りである。さらには、この計画には会津藩が深く関与していたようでもある。これまで、佐久間象山と会津藩との関係については、それほど多くは語られてこなかった。ほとんど資料がないからなのだろうが、開明派の象山と頑迷固陋な佐幕原理主義と見られてきた会津との接点など考えられなかったのである。わずかに山本覚馬が象山の弟子であったということぐらいだろう。
 それが、象山と会津藩は協力して孝明天皇を江戸に遷す計画を進めていたというのである。このことは松本健一氏の『評伝佐久間象山』にあり、広沢安任(当時の会津藩公用方)の回想にもはっきりと江戸に遷都する計画があったことが書かれているという。
 こういう危険な思想を尊攘派はゆるしておけなかったのだろう。七月十一日夕刻、象山は山階宮邸からの帰途、三条木屋町通りの路上で河上彦斎らに襲われて非業の最期をとげるのである。


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Posted by 南宜堂 at 08:17│Comments(1)幕末・維新

この記事へのコメント

お教えください。
会津藩士をして「薩摩・真田に大砲なくば、官軍破るも何のその」
との記事がありますが、この出典先を知りたいのですが・・・。
Posted by 武雄 淳 at 2015年08月28日 20:25

 
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