2009年08月07日

象山嫌い

 佐久間象山という人は、同時代の人々にはあまり好かれていなかったらしい。弟子で義兄弟である勝海舟が「あれだけの人物であった」というようなことを言っているし、河井継之助もその識見には感服したものの、人物については好きになれなかったようなのである。
 こういう事を聞かされると信州人としては穏やかではない。なんといっても、象山は信州では第一級の偉人なのだから。県歌「信濃の国」、この歌は信州人なら誰でもが歌える、には「国は偉人の出るならい」として、木曾義仲・太宰春台・仁科信盛とともに代表的な偉人とされているのだ。
 象山を好きになれなかった人たちも、その学問の深さや弁舌の巧みさには一目も二目も置いているのだが、人間性には問題ありとしている。そんな同時代人の象山評が現代に語り継がれているのか、今になっても象山の評価はよくない。
 そういう気分的なものだけではなく、象山の評価を下げている要因がまだあるとして、多くの資料に当たりながら象山を再評価をしようとした人がいる。信州佐久の出身である作家の井出孫六さんだ。(「小説 佐久間象山」)
 井出さんによると、後世にまで象山の評判をおとしめている一番の理由は「象山未練説」とよばれるものなのだという。佐久間象山のように危害を逃れようといたずらに理屈をこねるよりも、吉田松陰のように潔く罪を認める方が優れているというのである。こういう説がその時代には広く信じられていたようで「とくに松陰の生地萩などには根強くそのまま残っていたであろう。その上、後年、蟄居を解かれた象山は、攘夷論の風が渦巻く京都にのぼって、開国論を説いた。攘夷論をからませた倒幕にまなじりを決していた長州藩士たちの目には、象山が不倶戴天の存在として映った。」
 しかし、この「象山未練説」は、象山の真意を理解できない人々の誤解にもとずくものであった。吉田松陰は密航の実行者であるのだが、彼はこのことが国禁を犯すものである事は十分に理解していた。だからそれが失敗したとき潔くその罪を認めたのである。
 これに対して教唆犯とされる象山は、黒船の来航という未曾有の危機に際して、松陰のような有能な士が海外に渡り、国を守るに必要な知識を持ち帰る事がどうして国禁を犯すものであろうかと持論を展開したのである。こういう主張が、回りには自らの罪を免れるための詭弁ではないかと映ったのである。
 どうも佐久間象山という人は腹芸のできなかった人のようである。彼のように奉行を前に堂々と持論を展開したのではどう考えても心証が良くなるはずはない。そのことを象山はわからなかったのだろうか。象山という人が同時代の人々に評判が良くないのは、そんな相手の顔色を伺いながら話すという事ができなかったからのような気がする。
写真は長野市の八幡原史跡公園に建つ佐久間象山像(撮影、A.H.氏)
象山嫌い


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Posted by 南宜堂 at 23:37│Comments(0)幕末・維新

 
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