2009年08月27日

龍馬の場合

 坂本龍馬は、文久2年3月24日土佐藩を脱藩した。士分にのし上がろうとした土方歳三とは逆のコースである。その理由というのはよくわかっていない。一説には土佐勤王党の吉田東洋暗殺計画に嫌気がさしたからだといわれている。その前年、龍馬は武市瑞山が主宰する土佐勤王党に加盟している。土佐勤王党は、瑞山をはじめそのほとんどの構成員が郷士か上層の農民であった。このことから、土佐勤王党の運動の底流に、土佐藩の身分制度への反発があり、龍馬の加盟もそんな動機を指摘する意見もある。これは誠にわかりやすい動機付けではあると思うが、龍馬の育った環境やその後の行動から考えて、そんな狭い了見からではないだろうと思う。
 いずれにせよ坂本龍馬は一介の浪人となった。姉乙女への手紙の中で、龍馬は自分のことを「土佐の芋掘り」という風に言っている。これは比喩的な表現だと思うのだが、要するに机上の空論をかざすような書生の議論ではなく、土の中に眠る芋を掘り起こすように、自分の手で自分の体を使って自分の道を切り開いていこうという決意であろう。こういう言い方の中からは上昇志向というのは読み取れない。もちろん封建の身分制度には理不尽なものを感じていたろうとは思うが、何が何でもそれを固定し、自らは上昇をはかるということではなく、それは平らにしていけばいいと考えたのであろう。
 この時代こういう身分制度というものを相対的なものととらえていた人物というのは少ないように思う。坂本龍馬に生まれながらに身に付いた個性というものもあるだろうが、育った環境にもそれはあるようだ。有名なエピソードに慶応3年西郷隆盛が高知を訪れた時の話がある。西郷は坂本の本家才谷屋の当主源三郎をえらく気に入り、武士に取り立てるよう藩主に進言したという。これを知って才谷屋の人たちは喜ぶばかりかえらく困惑したのだという。自由で豊かな生活を捨ててまで武士になりたいとは思わなかったようである。龍馬の中にもこんな気質があったのではないか。例の「新政府の高官となるよりは世界の海援隊をやりたい」という台詞もこんなところから出てくるのかもしれない。
 龍馬の師である勝海舟は龍馬とはひじょうに似通った考えをもった人物だとは思うが、海舟はついに最後まで幕臣である身分を捨てようとは思わなかった。


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Posted by 南宜堂 at 16:28│Comments(0)幕末・維新
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