2009年09月28日
戊辰戦争とは
いま手もとに『戊辰の役120年記念 司馬遼太郎先生講演会記録集」と題した小冊子がある。先日福島県白河市を訪れた際にいただいたものだ。
一読して思ったことは、非常に苦労して話されているなと、話しにくそうにしているのが伝わってくるようであった。この記録集はほとんど編集というものがなされておらず、話したままを文字にしたという感じで読みにくいものであったのだが、それがまた講演者の苦心を伝えていた。ただ、誤字脱字が多く、たとえば一粒万倍とするところを一流満杯などとまったく意味をなさないような漢字に変換されていて、これは講演者に失礼なのではないかと思ったりもしたのである。
この講演録では、司馬遼太郎は戊辰戦争で東北諸藩が負けたのは、鉄砲の差だったんだという風に言っている。つまり、東北は火縄銃に毛の生えたような銃であったのに対して、薩摩や長州は元込め式の銃を使っており、そこに殺傷能力の違いが出たというのである。
このことは象徴的な話である。それだけ西南諸藩が外国の脅威を強く感じていたのであり、機を見るに敏に行動しただけであると。さらにこの差異は稲作の問題ではないかとも言っている。もともとが寒冷地には適さない稲作を東北にまで普及させたがために、東北は南の地方より不利益を被ってきたのだ。
戊辰戦争について、西南諸藩の開明性と東北諸藩の後進性という視点でとらえ、東北は敗れるべくして敗れたのだとする論があるが、それは間違いであると司馬は言っているようである。
戊辰戦争は薩長が仕掛けた武力革命である。革命には血祭りが必要なのであり、徳川慶喜が絶対恭順で逃げてしまったがためにその刃は会津に向けられたのである。会津は割を食ったのだというのが司馬の捉えかたなのである。
「ふざけるな」という反応を予測して司馬の講演は歯切れが悪かったのだと思う。会津は後進的でも頑迷でもなかったのだということを司馬は言っているのだが、それでも戊辰戦争を鉄砲の違いだの割を食ったのだなどと説明されても「そうですね」で済まないのは当然だろうとは思う。
しかし革命なのである。どんな崇高な理想を掲げようと、体制を倒さないことには成就しないのだ。会津に非があったわけではない。たまたま京都守護職という体制側の要職にあったということだけで敵とされたにすぎない。
という風に考えていくと、どちらが正しいのかという判断は意味をなさないだろう。まさに俯瞰しているのだ。ただ、そこにうごめく人々がどんな思いで行動し、死んでいったのか、あるいは生き延びたのかという文学的な興味というものは大いにかき立てられるのである。
ただし、戦争後に新政府が会津に対した仕打ちというのは、それはもう革命とは似つかないものであった。そのことを知っている私たちはどうしても戦争中の薩長をそういう目でみてしまうのだろう。
一読して思ったことは、非常に苦労して話されているなと、話しにくそうにしているのが伝わってくるようであった。この記録集はほとんど編集というものがなされておらず、話したままを文字にしたという感じで読みにくいものであったのだが、それがまた講演者の苦心を伝えていた。ただ、誤字脱字が多く、たとえば一粒万倍とするところを一流満杯などとまったく意味をなさないような漢字に変換されていて、これは講演者に失礼なのではないかと思ったりもしたのである。
この講演録では、司馬遼太郎は戊辰戦争で東北諸藩が負けたのは、鉄砲の差だったんだという風に言っている。つまり、東北は火縄銃に毛の生えたような銃であったのに対して、薩摩や長州は元込め式の銃を使っており、そこに殺傷能力の違いが出たというのである。
このことは象徴的な話である。それだけ西南諸藩が外国の脅威を強く感じていたのであり、機を見るに敏に行動しただけであると。さらにこの差異は稲作の問題ではないかとも言っている。もともとが寒冷地には適さない稲作を東北にまで普及させたがために、東北は南の地方より不利益を被ってきたのだ。
戊辰戦争について、西南諸藩の開明性と東北諸藩の後進性という視点でとらえ、東北は敗れるべくして敗れたのだとする論があるが、それは間違いであると司馬は言っているようである。
戊辰戦争は薩長が仕掛けた武力革命である。革命には血祭りが必要なのであり、徳川慶喜が絶対恭順で逃げてしまったがためにその刃は会津に向けられたのである。会津は割を食ったのだというのが司馬の捉えかたなのである。
「ふざけるな」という反応を予測して司馬の講演は歯切れが悪かったのだと思う。会津は後進的でも頑迷でもなかったのだということを司馬は言っているのだが、それでも戊辰戦争を鉄砲の違いだの割を食ったのだなどと説明されても「そうですね」で済まないのは当然だろうとは思う。
しかし革命なのである。どんな崇高な理想を掲げようと、体制を倒さないことには成就しないのだ。会津に非があったわけではない。たまたま京都守護職という体制側の要職にあったということだけで敵とされたにすぎない。
という風に考えていくと、どちらが正しいのかという判断は意味をなさないだろう。まさに俯瞰しているのだ。ただ、そこにうごめく人々がどんな思いで行動し、死んでいったのか、あるいは生き延びたのかという文学的な興味というものは大いにかき立てられるのである。
ただし、戦争後に新政府が会津に対した仕打ちというのは、それはもう革命とは似つかないものであった。そのことを知っている私たちはどうしても戦争中の薩長をそういう目でみてしまうのだろう。
Posted by 南宜堂 at 00:23│Comments(0)
│幕末・維新
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