2009年10月16日
石田和助
「石田和助をごぞんじですか」
何かの会合の折り、そう言って話しかけてきた人がいた。
私が編集者で、戊辰戦争関連の本も手がけたことがあるということを知って、そんな話題を持ち出してきたのであろう。
信州にいると、戊辰戦争のことが話題になるということはまずない。ここはあの戦争の時まったくの無風地帯であった。飯山戦争というのがあって、古屋佐久左衛門率いる衝鋒隊が高田から峠を越えて侵入し、飯山藩との間で戦いがあったが、これは局地的なものであった。
石田和助については、名前くらいは知っていたので、「ああ、飯盛山で自刃した白虎隊の」と答えたのだと思う。
その方は和助の子孫なのだということを言っていた。仙台の生まれだとのことであったが、会津の石田和助の子孫がなぜ仙台に行ったのかということは聞き漏らしてしまった。
白虎隊は、戊辰戦争のときに会津藩が編成した年齢別の軍制の中で、16、7歳の少年を中心とした隊であった。本来は予備役であった。
しかし、敵が会津城下に迫るという危機の中、白虎隊にも出陣の命令が下る。和助の所属していた士中二番隊は戸の口原で戦うが敗れ、飯盛山に逃れる。
ここから鶴ヶ城方面を眺めた少年たちは、城下から火の手が上がるのを、お城が焼け落ちたと勘違いして、和助をはじめ総勢20名が自刃した。後に飯沼貞吉だけが一命を取り留め、明治の世まで生き延びた。
会津藩は身分制度に厳格で、白虎隊も士中隊、寄合隊、足軽隊にその身分によって分けられ、和助は士中二番隊に配属されていた。
和助の父石田龍玄は、藩主の侍医であった。石田家はもともとは農家の出であったので、藩校日新館の朋輩からはそのことで「成り上がり者」と馬鹿にされた。それに対して和助は、自分の家は農家より出て侍医になったのだから成り上がりには違いないが、君たちの家はもともとが高位高禄の家であるにもかかわらず、それを守るのに汲々としているだけではないかとやり返したという話が伝わっている。
何かの会合の折り、そう言って話しかけてきた人がいた。
私が編集者で、戊辰戦争関連の本も手がけたことがあるということを知って、そんな話題を持ち出してきたのであろう。
信州にいると、戊辰戦争のことが話題になるということはまずない。ここはあの戦争の時まったくの無風地帯であった。飯山戦争というのがあって、古屋佐久左衛門率いる衝鋒隊が高田から峠を越えて侵入し、飯山藩との間で戦いがあったが、これは局地的なものであった。
石田和助については、名前くらいは知っていたので、「ああ、飯盛山で自刃した白虎隊の」と答えたのだと思う。
その方は和助の子孫なのだということを言っていた。仙台の生まれだとのことであったが、会津の石田和助の子孫がなぜ仙台に行ったのかということは聞き漏らしてしまった。
白虎隊は、戊辰戦争のときに会津藩が編成した年齢別の軍制の中で、16、7歳の少年を中心とした隊であった。本来は予備役であった。
しかし、敵が会津城下に迫るという危機の中、白虎隊にも出陣の命令が下る。和助の所属していた士中二番隊は戸の口原で戦うが敗れ、飯盛山に逃れる。
ここから鶴ヶ城方面を眺めた少年たちは、城下から火の手が上がるのを、お城が焼け落ちたと勘違いして、和助をはじめ総勢20名が自刃した。後に飯沼貞吉だけが一命を取り留め、明治の世まで生き延びた。
会津藩は身分制度に厳格で、白虎隊も士中隊、寄合隊、足軽隊にその身分によって分けられ、和助は士中二番隊に配属されていた。
和助の父石田龍玄は、藩主の侍医であった。石田家はもともとは農家の出であったので、藩校日新館の朋輩からはそのことで「成り上がり者」と馬鹿にされた。それに対して和助は、自分の家は農家より出て侍医になったのだから成り上がりには違いないが、君たちの家はもともとが高位高禄の家であるにもかかわらず、それを守るのに汲々としているだけではないかとやり返したという話が伝わっている。
Posted by 南宜堂 at 11:31│Comments(0)
│幕末・維新
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