2009年11月06日

会津の気風

 松平容保が肌身離さず身につけていたという孝明天皇の宸翰について、戊辰戦争に関する多くの著作をもつ作家の星亮一氏から、あの時代宸翰というものは乱発されていて、それほどありがたいものではなかったのだというご指摘をいただいた。
 天皇といえども政局に翻弄された時代である。宸翰が政治的に利用されていたであろうことは想像できることだ。しかし、松平容保の主観の中では、孝明天皇のくだされた宸翰は何にもかえがたい貴重なものではなかっただろうか。
 明治維新とは何であったのかという議論は一時盛んに行われ、いまだに決着がついていないようである。政治的に、思想的に、そして経済的にと、さまざまな観点からの検証が行われる中、経済的な観点からみたら、封建主義的な米を中心とした経済から資本主義的な商品経済へ移行するための革命であったとのとらえ方もできる。
 図式的になってしまうが、商品経済の発達した薩長土肥といった西南雄藩対米経済に執着する幕府・会津という対立が戊辰戦争であった。結果はいま私たちが見ている通りで、爛熟とでもいったほうがいいくらいに商品経済が発達した現代からあの時代を見た時、果たしてあの革命は正義の革命であったのかと素朴な疑問にとらえられるのである。
 武士階級という働かない階層を解体し、農民を封建的な搾取から解放し、より平等な社会をつくったという点では必要な革命であったとは思うのだが、気持ちの上で何か釈然としないものがあるのもまた確かなのである。

 先日私は、「松平容保の容貌は、華奢で端正である。」と司馬遼太郎がいっていて、その印象は司馬の見る会津藩の印象と重なるのではないかとことを書いた。そのことについて考えてみたい。
 松平容保の肖像というと、京都守護職時代の立て烏帽子姿の写真が有名で、司馬の印象もおそらくこの写真からのものであろうと思われる。松平容保という人は「華奢で端正」であるばかりではなく、忠誠心に厚く生真面目で物静かな人であったようだ。
 これはもう会津藩の印象そのものではないか。藩祖保科正之以来の徳川家に対する忠誠心を守り続け、北辺の警備など困難な職務を黙々と務めてきた会津。藩内にあっては身分の上下を重んじ、厳粛な秩序の中で質実剛健の風を養ってきたのが会津であった。
 そういう気風が商業資本の発達を妨げた。それだけではないが、大きな要素ではあったと思う。司馬遼太郎の言う、戊辰戦争は鉄砲の差であったというのはそういうことだろう。
 どちらが正しいということではなく、たまたま西南の雄藩では商業資本が発達し、その経済力で革命への機運が起り、志士を育てたということなのだろう。
 どちらが正しいということではないのだが、どちらがより好きかという判断はあると思う。司馬遼太郎という人はゼニというものはあまりお好きではなかったようだ。そんな司馬はあの松平容保の肖像に、そしてそれと重なる会津藩の姿により親しいものを感じていたのだと思う。


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Posted by 南宜堂 at 00:25│Comments(0)幕末・維新
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