2009年11月20日
再び、「痩我慢の説」を読む
「痩我慢の説」は、明治24年に福沢諭吉が執筆したものであるが、実際に発表されたのは10年後の明治34年正月のことであった。その理由について、福沢自身語ってはいないが、内容が勝海舟や榎本武揚を批判したものであったからではないかということが推測されている。
しかし、福沢は執筆の時点でその原稿を二人に送って、発表の許可を取っている。それではなぜ発表を憚ったのか。二人への批判の前に展開されている福沢の国家論ともいうべきものが、世間の誤解を受けるのを恐れたのではないかと私は思っている。
「痩我慢の説」の冒頭で、福沢は次のように述べている。「立国(りっこく)は私(わたくし)なり、公(おおやけ)に非(あら)ざるなり。」 ここで福沢は、国家といえども私的なものであって、公のものではないということをいっているのだ。もともとは国などなく、人々は自由に行き来し、生産し交易をしていたというのである。
しかし、現実には人々は国を立て、また政府を設けてきた。そして、それを育てていくために忠君愛国の情も生まれ、それを国民最上の美徳と称するようになったのである。「故に忠君愛国の文字は哲学流に解すれば純乎(じゅんこ)たる人類の私情(しじょう)なれども、今日までの世界の事情においてはこれを称して美徳といわざるを得ず。すなわち哲学の私情は立国の公道(こうどう)にして、この公道公徳の公認せらるるは啻(ただ)に一国において然(しか)るのみならず、その国中に幾多の小区域あるときは、毎区必ず特色の利害に制せられ、外に対するの私(わたくし)を以て内のためにするの公道と認めざるはなし。」なのである。
人類の私情でありながら、立国の公道ともいうべき忠君愛国の情は、平時にあってはそれほど困難もなく共同体の共通の認識としてあるのだが、それが共同体の危機に瀕してはより激越な仕方であらわれるのである。すなわち「左れば自国の衰頽に際し、敵に対して固より勝算なき場合にても、千辛万苦、力のあらん限りを尽し、いよいよ勝敗の極に至りて始めて和を講ずるか、もしくは死を決するは立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称すべきものなり。すなわち俗にいう瘠我慢なれども、強弱相対していやしくも弱者の地位を保つものは、単にこの瘠我慢に依らざるはな」いのである。
福沢はそんな立場から、維新に際して勝海舟がとった江戸城の無血開城という措置を批判するのである。すなわち「然(しか)るに爰(ここ)に遺憾(いかん)なるは、我日本国において今を去ること二十余年、王政維新(おうせいいしん)の事(こと)起りて、その際不幸にもこの大切なる瘠我慢(やせがまん)の一大義を害したることあり。」
徳川幕府といえども、家康以来300年にわたって三河武士の誇りとして支えられてきた公理である。戦わずして白旗を掲げるは「日本の経済において一時の利益を成したりといえども、数百千年養い得たる我日本武士の気風を傷うたるの不利は決して少々ならず。」というのである。
しかし、福沢は執筆の時点でその原稿を二人に送って、発表の許可を取っている。それではなぜ発表を憚ったのか。二人への批判の前に展開されている福沢の国家論ともいうべきものが、世間の誤解を受けるのを恐れたのではないかと私は思っている。
「痩我慢の説」の冒頭で、福沢は次のように述べている。「立国(りっこく)は私(わたくし)なり、公(おおやけ)に非(あら)ざるなり。」 ここで福沢は、国家といえども私的なものであって、公のものではないということをいっているのだ。もともとは国などなく、人々は自由に行き来し、生産し交易をしていたというのである。
しかし、現実には人々は国を立て、また政府を設けてきた。そして、それを育てていくために忠君愛国の情も生まれ、それを国民最上の美徳と称するようになったのである。「故に忠君愛国の文字は哲学流に解すれば純乎(じゅんこ)たる人類の私情(しじょう)なれども、今日までの世界の事情においてはこれを称して美徳といわざるを得ず。すなわち哲学の私情は立国の公道(こうどう)にして、この公道公徳の公認せらるるは啻(ただ)に一国において然(しか)るのみならず、その国中に幾多の小区域あるときは、毎区必ず特色の利害に制せられ、外に対するの私(わたくし)を以て内のためにするの公道と認めざるはなし。」なのである。
人類の私情でありながら、立国の公道ともいうべき忠君愛国の情は、平時にあってはそれほど困難もなく共同体の共通の認識としてあるのだが、それが共同体の危機に瀕してはより激越な仕方であらわれるのである。すなわち「左れば自国の衰頽に際し、敵に対して固より勝算なき場合にても、千辛万苦、力のあらん限りを尽し、いよいよ勝敗の極に至りて始めて和を講ずるか、もしくは死を決するは立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称すべきものなり。すなわち俗にいう瘠我慢なれども、強弱相対していやしくも弱者の地位を保つものは、単にこの瘠我慢に依らざるはな」いのである。
福沢はそんな立場から、維新に際して勝海舟がとった江戸城の無血開城という措置を批判するのである。すなわち「然(しか)るに爰(ここ)に遺憾(いかん)なるは、我日本国において今を去ること二十余年、王政維新(おうせいいしん)の事(こと)起りて、その際不幸にもこの大切なる瘠我慢(やせがまん)の一大義を害したることあり。」
徳川幕府といえども、家康以来300年にわたって三河武士の誇りとして支えられてきた公理である。戦わずして白旗を掲げるは「日本の経済において一時の利益を成したりといえども、数百千年養い得たる我日本武士の気風を傷うたるの不利は決して少々ならず。」というのである。
Posted by 南宜堂 at 23:34│Comments(0)
│幕末・維新
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