2009年11月22日

江戸開城

 福沢諭吉が「痩我慢の説」で批判しているのは、江戸城の明け渡しに際して、勝海舟のとった行動に対してである。
 大坂城を脱出した徳川慶喜が、会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬を伴って、軍艦開陽丸で江戸に着いたのは、慶応4年1月11日のことであった。勝海舟は浜御殿の海軍所で慶喜に拝謁している。勝のその日の日記には次のように書かれている。
「初て伏見の顛末を聞く、会津侯、桑名侯ともに御供中にあり、其詳説を問わむとすれども、諸官唯青色、互に目を以てし、敢て口を開く者無し」。
 将軍慶喜が江戸に戻ってからは、城内では連日のように評定が行われ、主戦論、非戦論が入り交じってたいへんな騒ぎであった。主戦派は小栗上野介、小野友五郎らであり、非戦派は勝海舟、大久保一翁らであった。
 勝海舟の非戦論の根拠となったのは、徳川慶喜追討のために江戸に攻め寄せようとしている薩長の軍は「私」であるという認識であった。薩長は官軍と称し、錦旗をかざしているが、その内実は自分たちの怨念から発した私の軍隊である。
 それに対し、幕府は朝廷に大政を奉還し、政権を公のもとに置こうとしている。幕府の側にこそ公がある。一時の激情で薩長を討とうとすれば、自分たちも私の立場になってしまうではないかというものであった。
 しかし、形勢は主戦派に分があり、小栗らはフランスの力を借りて薩長を討たんとの勢いであった。対する勝らには、腰抜け、意気地なしの罵詈雑言がとんだ。
 慶喜は迷っていた。最終的な意志を決するのは将軍である。慶喜がいちばんに恐れていたのは、後世における賊臣という評価であった。
 そんなおり、1月22日、京都から勝や大久保に一通の書状が届いた。家茂夫人となった皇女和宮(静寛院院宮)を何とか無事に京都に帰れるよう尽力してほしいというものであった。この書状のことを知った慶喜はようやく動いた。西郷隆盛ら薩長軍幹部に人脈を持つ勝海舟に自らの運命を託してみようと決心したのである。
 1月23日、勝海舟は陸軍総裁に大久保一翁は会計総裁に抜擢された。反対に小栗上野介らはその地位を追われた。
 2月11日、慶喜の意志ははっきりと恭順に決まった。主戦派の幕閣はすべて罷免され、松平容保や松平敬は登城禁止となった。翌12日、慶喜は江戸城を出て、上野寛永寺の大悲院に蟄居する。


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Posted by 南宜堂 at 22:55│Comments(0)幕末・維新
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