2009年11月26日

身の処し方

 まさか自分の身には及ぶまいと思っていた新型のインフルエンザというのに罹ってしまい、高熱のために寝ておりました。そのために1週間近くもブログの更新がお留守になってしまいました。
 「インフルエンザA型の陽性反応が出ました」とお医者さん、うれしそうに告げたのはなぜなんでしょう。老人はかからないといわれていた病に、例外があって不思議だったのでしょうか。

 さて、つづきです。
 慶応4年1月の徳川幕府の混乱について、説明的な文章をつらねすぎたようである。ちょっと勉強すればわかるようなことであるのだが、浅学の身としては、学びながら整理していくよりない。
 要するに、福沢諭吉の勝海舟批判は身の処し方の問題を突いているのであろう。それは、幕府崩壊時の勝と新政府に出仕した勝への二重の批判であった。どんな見識を持っているにせよ、幕臣として徳川の禄を食んでいる身である。禄といって聞こえが悪いのであれば、三河以来続いた徳川という共同体が危機に瀕したといって、何の抵抗も示さず降伏してしまうのは、その精神において情けないというのであろう。
 百歩ゆずって、江戸城の明け渡しが仕方なかったにせよ、維新後に新政府に出仕したことは「必ずしも窮屈(きゅうくつ)なる三河武士(みかわぶし)の筆法を以て弾劾(だんがい)するを須(ま)たず、世界立国(りっこく)の常情(じょうじょう)に訴(うった)えて愧(はず)るなきを得ず。啻(ただ)に氏の私(わたくし)の為(た)めに惜(お)しむのみならず、士人社会風教(ふうきょう)の為(た)めに深く悲しむべきところのものなり。」
 これに対する勝海舟の返書というのがある。
「従古(いにしえより)当路者(みちにあたるもの)、古今一世之人物にあらざれば、衆賢(しゅうけん)之批評に当る者あらず。不計(はからずも)拙老先年之行為に於て、御議論数百言御指摘、実に慚愧(ざんき)に不堪ず(たえず)、御深志忝存候(かたじけなくぞんじそうろう)。
○行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せずと存候。」


同じカテゴリー(幕末・維新)の記事画像
佐久間象山と会津藩
軍人嫌い
男磨いた勇み肌
意地と度胸じゃ負けないが
次郎長傳 2
次郎長傳
同じカテゴリー(幕末・維新)の記事
 愚庵と千葉卓三郎 (2013-09-09 09:52)
 愚庵とニコライ神父 (2013-09-04 23:42)
 天田愚庵のこと (2013-08-29 10:53)
 これもまた「薮の中」 (2013-07-01 10:06)
 ある二本松藩士のこと (2013-06-17 23:56)
 佐久間象山と会津 2 (2013-01-22 21:18)

Posted by 南宜堂 at 16:08│Comments(0)幕末・維新
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。

 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。