2009年11月28日

使者山岡鉄舟

 慶応4年2月12日、徳川慶喜が上野寛永寺の大悲院に蟄居したのを見届けて、勝海舟は新政府との交渉に入るべく動きはじめた。
 勝にとって幸いであったのは、征東軍の総督府参謀に西郷隆盛がいるということであった。勝がこのことを知ったのは、慶喜蟄居の直後であったらしい。なんとか西郷に接触をはかるべく書を送ったりもしたが、なかなかはかばかしい結果はえられなかった。この間にも、総督府は3月15日を江戸城総攻撃の日と決している。
 そんな折、山岡鉄舟が勝のもとを訪ねてきた。薩摩藩士の益満休之助を伴って、自分が西郷に使いしたいというのであった。3月5日の夜のことであった。
 勝は山岡とはこの時が初対面であった。益満休之助は、幕府が江戸の薩摩藩屋敷を焼き討ちにした時に捕えられた。この日の3日前に勝が身柄を預かり、自分の屋敷に置いていたものであった。勝は一見しただけで、山岡に使者を託すことを決したという。
 翌早朝、勝の書を携えた山岡は益満を伴って駿府に出発した。益満の助けもあって、山岡は官軍の陣地を次々と通り抜け、駿府の西郷に会うことができた。
 勝の西郷に宛てた手紙というのは、決して一方的に恭順の意を表し、徳川慶喜の命乞いをしたものではなかった。自分たちは徳川氏の士民といえども皇国の民である事には変わりなく、謹んで恭順の意を表している。しかし、中には不心得者がいて、この大乱に乗じて混乱を起こそうとするものもいるだろう。そうなれば官軍といえど秩序の維持は困難になるだろう。そんな混乱の責任は官軍はとる覚悟があるのかという、見方によっては挑発とも思えるものであった。
 勝の手紙を読んだ西郷は、次のような降伏の条件を示し、山岡に持ち帰らせた。
一、慶喜儀、謹慎恭順の廉を以て備前藩へお預仰付らるべき事
一、城明渡し申す可き事
一、軍艦残らず相渡すべき事
一、軍器一切相渡すべき事
一、城内住居の家臣、向島へ移り、慎み罷り在るべき事
一、慶喜妄挙を助け候面々厳重に取調べ謝罪の道屹度相立つべき事
東京谷中全生庵にある山岡鉄舟の墓
使者山岡鉄舟


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Posted by 南宜堂 at 22:15│Comments(0)幕末・維新
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