2009年11月29日

西郷隆盛と談判

 勝海舟は交渉をしようとした。相手は総督府参謀西郷隆盛、旧知の仲である。後に勝は「氷川清話」で「江戸城受け渡しのとき、官軍の方からは、予想どおり、西郷が来るというものだから、おれは安心して寝ていたよ」と語っているが、実際はそうではなかった。
 町火消しの頭領である新門辰五郎に頼んで、いざという時には江戸の町にいっせいに火を放ち、焦土とする作戦を立てた。そのときに江戸の市民を船で避難させる方法も講じていた。
 そして、西郷隆盛との直接交渉にのぞんだのである。両者の会談は3月13日と14日に行われた。先に山岡鉄舟に託された降伏の条件について、
一、徳川慶喜は水戸に謹慎し隠居する
一、江戸城は明渡し、田安家に預ける
一、軍艦・軍器については武装解除の上、徳川にとどめ置いて、寛典処分の後、一部を残し引き渡す
一、城内住居の家臣は城外に引き移り謹慎する
一、慶喜妄挙を助け候面々については寛典処分とし、一命にかかわるようなことの無いようにしてほしい
というようなものであった。
 これに対し西郷は、これらの条件を一蹴することなく、総督府に持ち帰り協議することを約束した。3月15日の江戸城総攻撃は回避できたのである。
 後世になってわかってきたことだが、会談にのぞむ西郷にイギリス公使パークスが圧力をかけていた。パークスは、恭順しているものを攻めることの非を訴え、もし内乱になった場合に居留外国人の安全が確保できるのかと脅した。15日の総攻撃が回避された背景には、外国からの圧力もあったのである。
 京都からの回答は4月4日、江戸城にもたらされた。江戸城の明け渡しは4月11日、徳川慶喜は尾張徳川家に預けられることが決まった。


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Posted by 南宜堂 at 20:21│Comments(0)幕末・維新
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