2009年12月04日

将軍東帰の事

 慶応4年正月11日の勝海舟の日記に、将軍徳川慶喜が大坂から軍艦開陽丸に乗り、江戸に帰ってきた時のようすが記されている。
「開陽艦品海へ錨を投ず、使ありて払曉浜海軍所へ出張、御東帰の事。」
 日記といっても、備忘録のようなつもりで書いていたであろうから、感情などは抜きに、事のなりゆきだけを淡々と綴られている。しかし、後年の「海舟語録」を見ると、その怒りが伝わってくる。
「スルト、みんなは、海軍局の所へ集つて、火を焚いて居た。慶喜公は、洋服で、刀を肩からカウかけて居られた。己はお辞儀も何もしない。頭から、みなにサウ言うた。『アナタ方、何といふ事だ。これだから、私が言はない事ぢやあない、もうかうなつてから、どうなさる積りだ』とひどく言つた。「上様の前だから」と、人が注意したが、聞かぬ風をして、十分言つた。刀をコウ、ワキにかゝへて大層罵つた。己を切つてでもしまふかと思つたら、誰も誰も、青菜のやうで、少しも勇気はない。かくまで弱つて居るかと、己は涙のこぼれるほど嘆息したよ。」(「海舟語録」講談社学術文庫・明治30年4月22日の記事)
 ここにはじめて「涙のこぼれるほど嘆息した」という勝の思いが吐露されている。ほんとうにそんな風に言ったのかどうか、例によって勝の晩年の放言は割引して聞かないといけないのだが、慶喜らに対して怒っていたのは確かなようだ。
 勝はいったい何に対して怒っていたのだろうか。将軍が戦わずして逃げ帰ってきたからではあるまい。勝ははじめから非戦論者である。
 直接には前年の暮れ、薩摩藩邸焼き討ちの経緯であろう。勝は反対であった。それに対して上役から、「当分遠慮して、引込んでいなさい」と言われ、謹慎していた。鳥羽伏見のことは、勝謹慎中のできごとである。
 自分を遠ざけるからこんな始末になってしまったのだという忸怩たる思いが、怒りとなって表れたのである。勝海舟という人は相当な自信家であった。そうでなければ、幕末のあの難局は乗り切れなかったであろう。
 勝の怒りは無能な幕閣に向けられると同時に、将軍慶喜にも向けられていた。将軍への怒り、これを理解するためには、もう少し時間を巻き戻さなければならない。


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Posted by 南宜堂 at 00:15│Comments(0)幕末・維新
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