2009年12月12日

その毒に酔う

 慶応4年1月23日、勝海舟は崩壊寸前の幕府の陸軍総裁に就任した。それまでは、奉行・奉行並といった古風な呼び方であったものを、総裁・副総裁に変わり、設けられた役職であった。
 任命したのは、将軍徳川慶喜である。将軍東帰の一件を見ても、勝と慶喜が信頼関係で結ばれていたとはどうしても思えない。そんな勝を慶喜はなぜ抜擢したのだろうか。
 前年の9月に大政を奉還した慶喜であったが、そのときの肚は、自らの影響力を十分に残しつつ将軍を退くということであった。しかし、鳥羽伏見の戦いの勃発が、その企みを一瞬のうちに砕いてしまった。朝敵として追討される身になってしまったのだ。
 何とか朝敵の汚名だけは後世に残したくない。その強い思いが、勝に政権を委ねさせたのだろう。薩摩や長州に多くの人脈を持つ勝に望みをつないだのだ。
 同時に、大久保一翁が会計総裁に就いている。勝にとって、幕臣の中ではもっとも信頼の置ける人物である。
 勝の方針は、戦いは回避するという方向に決まっていたが、いまだ城内には、抗戦派が多数を占めていた。彼らには「長州薩州は、後幕府に害あり、必ずこれを滅せずんば害あらん、わがフランスに頼らば軍艦武器および金幣といえども、送り来たして差支ゆべからず」とフランス公使ロッシュが申し出ていた。
 それに対し勝は、苦々しい思いで日記にこう書き付けている。「小吏その説を実とし、その毒に酔う、また醒むる者なし、イギリス人これを知りて、ひそかにその党を悪む、ついに西国侯伯に遊説する者あるか。」
 勝は、幕府と薩長の争いが、フランスとイギリスの代理戦争のような様相を呈することを恐れたのである。


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Posted by 南宜堂 at 15:51│Comments(0)幕末・維新
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