2009年12月21日

参謀西郷氏へ談ぜん

 3月5日付けの勝海舟の日記「旗本山岡鉄太郎に逢う、一見その人となりに感ず。」
 山岡が勝を訪ねたのは「益満生を同伴して駿府へ行き、参謀西郷氏へ談ぜんという」ものであった。
 勝は一目見るなり、その人物を見抜いたように書いているのだが、初対面の山岡に重要な任務を任せるというのは、いささか奇異な感がしないでもない。おそらく山岡の評判は前々から耳にしていたのであろう。
 益満休之助は薩摩藩士で、前年の薩摩藩邸の焼き討ちの際、幕府に捕らえられていた。3月2日にその身柄を勝が預かっていた。
 山岡鉄太郎(鉄舟)については、幕末維新史のいろいろな局面で現れて重要な役割を果たす人物ではあるのだが、その人となりの説明は省略し、ここはひとまず共に駿府に急がねばならない。
 山岡が勝の命を受けて、江戸を発ったのが3月6日の早朝である。同じ日に大総督府は、3月15日を江戸城総攻撃の日と決めた。
 山岡は駿府で西郷と会うことに成功し、勝の手紙を直接に手渡すことができた。それまで何度となく手紙を送りながら、それが届いているのやらいないのやら、皆目見当がつかなかったものが、確かな手応えをもって官軍に伝えることができたのである。
 勝の手紙を読んだ西郷は、降伏の条件を山岡に示した。これは西郷の独断ではなく、あらかじめ幹部の間で合意ができていたものであったのだという。それは次のようなものであった。
「一、慶喜儀謹慎恭順の廉をもって備前藩へお預仰付らるべき事、
一、城明渡し申す可き事、
一、軍艦残らず相渡すべき事、
一、軍器一切相渡すべき事、
一、城内住居の家臣、向島へ移り、慎み罷り在るべき事、
一、慶喜妄挙を助け候面々厳重に取調べ、謝罪の道屹度相立つべき事、
一、玉石共に砕くの御趣意さらにこれなきに付、鎮定の道相立て、もし暴挙致し候者これあり、手に余り候わば、官軍をもって相鎮むべき事、
右の条々実効急逹相立ち候わば、徳川氏家名の儀は、寛典の御処置,仰せ付けらるべく候事。」
 3月10日、江戸に戻った山岡は早速勝に報告している。
「山岡氏東帰,駿府にて西郷氏へ面談。君上の御意を達しかつ、総督府の御内書、御処置の箇条書を乞うて帰れり。ああ山岡氏沈勇にして、その識高く、よく君上の英意を演説して残すところなし、はなはだもって敬服するにたえたり。」


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Posted by 南宜堂 at 21:21│Comments(0)幕末・維新
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