2009年12月23日

西郷吉之助へ面接す。

 勝海舟と西郷隆盛の会談は、3月13日と14日の2日間にわたって行われた。勝海舟の13日の日記には「高輪薩州の藩邸に出張、西郷吉之助へ面接す。」とあり、14日の日記にも「同所に出張,西郷に面会す、諸有司の嘆願書を渡す。」とある。
 13日の会談は「後宮の御進退」、すなわち静寛院宮(和宮)の安全についての話があっただけだった。
 翌14日になってはじめて、勝は嘆願書を西郷に示した。これは、過日東征軍が山岡鉄太郎に託した降伏条件についての回答であった。それは次のような内容のものだった。
一、徳川慶喜は水戸に謹慎し隠居する
一、江戸城は明渡し、田安家に預ける
一、軍艦・軍器については武装解除の上、徳川にとどめ置いて、寛典処分の後、一部を残し引き渡す
一、城内住居の家臣は城外に引き移り謹慎する
一、慶喜妄挙を助け候面々については寛典処分とし、一命にかかわるようなことの無いようにしてほしい
 この回答を見る限り、勝は官軍に対し妥協することなく、最大限自分たちの要求を入れようとしていたことがわかる。
 後になって勝は「予想通り西郷が来るといふものだから、おれは安心して寝ていたよ。」という風に述懐しているが、実際のところは、先に記したように官軍の進軍を阻むために、江戸の町を焼き払うという焦土作戦まで考えて必死であった。
 一方の西郷に就いて、荻原延壽は著書「遠い崖」の中で「勝と大久保の登場を知ったときから、西郷は慶喜の助命と江戸攻撃の中止を、現実的な可能性として考慮しはじめたのではないだろうか。」と、会談が勝のペースで進んだのではないかとしている。
 その理由として、西郷は恭順が確かであり、それを保証するに足る信頼できる人物が徳川方の責任者として出てくるのであれば、無用な流血は避けたいというのが本心であったからだという。
 しかし、西郷はもともとが強硬論者であったはずだ。2月2日付けの大久保一蔵(利通)に宛てた手紙にも「慶喜退隠の嘆願、甚だ以て不届き千万、是非に切腹迄には参り申さず候わでは相済まず云々」と過激な口吻が見て取れる。
 その西郷が、徳川方の責任者として勝海舟がいるということを知った段階で、簡単に抜いた刀を収めるようなことをするのだろうか。このことでよく言われるのが、勝と西郷の信頼関係である。
 勝・西郷の会談による江戸城の無血開城は、明治維新の最大の見せ場として、後年になってさまざまに書き記されてきた。話というのは、どうしても時を経ることで潤色が加えられ、劇的になっていく傾向がある。
 二人の会談も、あたかも阿吽の呼吸で終わったようにされてしまったのだが、この責任の一端は勝の語り口にもある。
「なに相手が西郷だから、無茶な事をする気遣ひはないと思つて、談判の時にも、おれは欲を言はなかつた。ただ幕臣が飢えるのも気の毒だから、それだけは、頼むぜいつたばかりだつた。それに西郷は、七十万石くれると向ふから言つたよ。」とこんな調子なのだ。


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Posted by 南宜堂 at 17:55│Comments(0)幕末・維新
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