2009年12月29日
福沢は学者だからネ
福沢の批判に対して、勝は「氷川清話」で次のように言っている。「福沢は学者だからネ。おれなどの通る道とは道が違ふよ。つまり「徳川幕府あるヲ知つて日本あるを知らざるの徒は、まさにその如くなるべし、唯百年の日本を憂ふるの士は、まさにかくの如くならざるべからず」サ」
自分は、徳川幕府の存続だけを考えて江戸城の無血開城を決心したのではない。日本全体を、日本の百年先を考えて西郷と談判したのだ。そこへいくと福沢などは学者だから、痩我慢がどうの、抵抗の精神がどうのと、まったく大局的な見地に立っていないということを言いたかったのであろう。
さらにこうも言っている。「おれが政権を奉還して、江戸城から引払うやうに主張したのは、いはゆる国家主義から割り出したものサ。三百年来の根柢があるからといつたところが、時勢が許さなかつたらどうなるものか。」
さらに、維新後の勝の身の処し方に対する批判に対しては、こんな言葉で答えている。
「今の事は今知れて、今の人に賞められなくては、承知しないという尻の孔の小さい奴ばかりだろう。大勲位とか、何爵とかいふ肩書を貰って、俗物からわいわい騒ぎ立てられるのをもつて、自分には日本一の英雄豪傑だと思つて居るのではないか。」そんな奴らは、今から30年もすれば忘れられてしまうだろうという。
勝に言わせれば、そんなことにこだわること自体福沢は俗物だと言いたかったのかもしれない。
確かに明治維新後の日本の歩みを考えれば、西欧列強の植民地となることもなく、近代化を遂げていくことができた。これは勝に先見の明があったからなのかもしれない。しかし、福沢が日本の近代化の中で強調したかった「一身独立して一国独立す」という国民の自立の精神の確立は十分にできたとはいえるだろうか。
そんなこと俺は知っちゃあいないよ、と勝ならかわすのかもしれない。福沢が終生変わらず執念を燃やしていた個人の自立などということは勝の念頭にはなかった。
咸臨丸での渡米の後「アメリカでは、政府でも民間でも、およそ人の上に立つものは、皆その地位相応に利口でございます。この点ばかりは、全くわが国と反対のように思います」と言ったという勝の自負、この能力主義者の心には国民一人一人の自立などということは到底信じられなかったのではないだろうか。
しかし、明治維新後の勝は、新政府からは敬して遠ざけられ、自らの能力を発揮する場所を失っていた。それが大いに不満であったと、穿った見方をすればできなくもない。
だから維新後の勝の言動というものは、そういうわだかまりを考慮して考えなければいけないと思うのだが、少なくとも慶応4年の勝は、能力を発揮する舞台を与えられていたわけで、全身全霊を傾けて事に当たっていたのである。
自分は、徳川幕府の存続だけを考えて江戸城の無血開城を決心したのではない。日本全体を、日本の百年先を考えて西郷と談判したのだ。そこへいくと福沢などは学者だから、痩我慢がどうの、抵抗の精神がどうのと、まったく大局的な見地に立っていないということを言いたかったのであろう。
さらにこうも言っている。「おれが政権を奉還して、江戸城から引払うやうに主張したのは、いはゆる国家主義から割り出したものサ。三百年来の根柢があるからといつたところが、時勢が許さなかつたらどうなるものか。」
さらに、維新後の勝の身の処し方に対する批判に対しては、こんな言葉で答えている。
「今の事は今知れて、今の人に賞められなくては、承知しないという尻の孔の小さい奴ばかりだろう。大勲位とか、何爵とかいふ肩書を貰って、俗物からわいわい騒ぎ立てられるのをもつて、自分には日本一の英雄豪傑だと思つて居るのではないか。」そんな奴らは、今から30年もすれば忘れられてしまうだろうという。
勝に言わせれば、そんなことにこだわること自体福沢は俗物だと言いたかったのかもしれない。
確かに明治維新後の日本の歩みを考えれば、西欧列強の植民地となることもなく、近代化を遂げていくことができた。これは勝に先見の明があったからなのかもしれない。しかし、福沢が日本の近代化の中で強調したかった「一身独立して一国独立す」という国民の自立の精神の確立は十分にできたとはいえるだろうか。
そんなこと俺は知っちゃあいないよ、と勝ならかわすのかもしれない。福沢が終生変わらず執念を燃やしていた個人の自立などということは勝の念頭にはなかった。
咸臨丸での渡米の後「アメリカでは、政府でも民間でも、およそ人の上に立つものは、皆その地位相応に利口でございます。この点ばかりは、全くわが国と反対のように思います」と言ったという勝の自負、この能力主義者の心には国民一人一人の自立などということは到底信じられなかったのではないだろうか。
しかし、明治維新後の勝は、新政府からは敬して遠ざけられ、自らの能力を発揮する場所を失っていた。それが大いに不満であったと、穿った見方をすればできなくもない。
だから維新後の勝の言動というものは、そういうわだかまりを考慮して考えなければいけないと思うのだが、少なくとも慶応4年の勝は、能力を発揮する舞台を与えられていたわけで、全身全霊を傾けて事に当たっていたのである。
Posted by 南宜堂 at 11:57│Comments(0)
│幕末・維新
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