2010年06月05日

会津藩の場合

 慶応4年1月17日に仙台藩に対し、会津藩追討の朝命が下ったことは先に述べた通りであるが、会津藩自身はこのころどうしていたのだろうか。
 鳥羽伏見の戦いで錦旗に発砲したとして会津藩主松平容保は、徳川慶喜とともに朝敵とされた。慶喜はいち早く恭順の意を示し、2月11日、上野寛永寺内の大慈院に引きこもった。
 同じ日、容保は輪王寺宮を通じて朝廷に嘆願書を提出し、慶喜への寛大な処置を願うとともに、自身も恭順して国元に帰り隠居することを申し出ている。
 2月22日、容保は会津に帰国した。家督を慶喜の弟である養子の喜徳に譲ったが、喜徳が14歳という年齢のため、委任を受けて政務を担当することにした。
 容保父子にとって、絶対恭順ということはありえなかった。なんとしても朝敵の汚名を雪がなければならない。鳥羽伏見の一件は、敵の攻撃を受けて発砲したまでであり、朝廷に対してはまったく異心を抱いていない。容保が恭順の意を示したのは、慶喜の恭順によりはからずもしたことである。もしそれでも敵が会津を攻めるようなことあらば、挙藩一致して防戦につとめるだろうというものであった。
 3月10日、会津藩は軍制を改革した。年齢と身分により隊を分けたのである。年齢により、玄武(50歳以上)・青竜(36歳から49歳)・朱雀(18歳から35歳)・白虎(16歳・17歳)に分け、それぞれの隊を身分により士中隊・寄合組隊・足軽隊に編成した。飯盛山で自刃する白虎隊は士中二番隊である。
 鳥羽伏見での苦い経験から、古い長沼流の兵法からの脱却も課題であった。旧幕府軍の士官が洋式訓練の指導に当たったが、習熟というにはほど遠かった。
 この当時、藩士の中にこれで勝てるのかという疑問を呈するものがいなかったのだろうか。いかに西南諸藩のことに疎くとも、一度鳥羽伏見で戦っているのである。会津藩はこの不十分な軍備をいったい何で補って戦おうとしたのだろうか。「会津士魂」なのか。
 会津は戦いに追い込まれたのだという見方もある。司馬遼太郎が言うように、革命には血祭りに上げるものが必要なのかもしれない。戊辰戦争において、それは徳川慶喜であった。しかし、それが勝・西郷会談で回避されたため、抜いた刀の矛先は会津に向かったのだというのである。
 それでは会津に戦う意志はなかったのかというと、今まで見たように「朝敵の汚名を雪ぐ」という大義名分のため、武備恭順の姿勢で薩摩・長州を迎え撃つ覚悟でいた。
 


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Posted by 南宜堂 at 10:06│Comments(0)幕末・維新
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