2010年06月24日

武市半平太のこと

 大河ドラマでは武市瑞山と山内容堂の確執が山場を迎えている。武市が岡田以蔵を毒まんじゅうで殺そうとしているらしい。ほんとうにそんなことを企てたのか。マンガの「おーい龍馬」にはそんな場面があるというのだが、信じがたい。近々、そのドラマの考証をしている方にお会いするので、ひとつそのことを聞いてみたいと思う。
  武市半平太(瑞山)は、龍馬と同じ郷士ではあるが、同時に大地主でもあった。郷士としての俸禄は二人扶持切米五石であるが、そのほかに五十石の水田を所有していた。裕福なのである。
 武市家はもともとが農家であったものが、享保十一年(1726)に郷士に取立てられた。そこは坂本家とよく似ている。坂本家は才谷屋という商家であったのだが、明和七年(1770)に郷士株を買って郷士になったのだ。
 半平太は、九歳になると、高知城下に住む国学者の鹿持雅澄の屋敷に預けられた。鹿持家は半平太の叔母の嫁ぎ先であった。鹿持雅澄は土佐では有名な国学者で、半平太はここで国学と剣術を学んだ。豪農郷士武市家を相続する嫡男として、一人前の武士となる修行をこの時代に積んだのである。
 謹厳実直といわれる半平太の性格はの修行の中から生まれてきたのであろう。一方の龍馬は、町人郷士の二男としてもっと自由な空気の中で育った。もちろん龍馬も日根野弁治の道場に通って剣術の修行はしており、その後江戸に出て千葉定吉にも入門している。
 読み書きは町の寺子屋のような塾(楠山塾)に通って学んだようだ。後に友人と喧嘩して退塾させられたという。学問は苦手であったようだ。
 「すでに十四歳をすぐるも、時に夜溺の癖を絶たず。父といえども其の遅鈍なるに大息せしが」と坂崎紫瀾が書いているが、龍馬ファンとしては聞きたくない話だろう。「夜溺」とは平たく言えば寝小便ということか。
 この寝小便の癖も、日根野道場に通う頃には直ったようだ。
武市半平太のこと


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Posted by 南宜堂 at 23:21│Comments(0)幕末・維新
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