2010年07月05日

再考・白虎隊の義

 会津に行ってきた。20年以上前になるが、仕事で毎月のように行っていたところである。どこの地方都市もそうなのだが、中心市街地は寂れ、似たような全国チェインの大型店が郊外のロードサイドに並んでいる。しかし、その中でもこの町はひとつの雰囲気を持っている。
 会津若松は白虎隊や会津戊辰戦争で有名で、飯盛山や鶴ヶ城には多くの観光客が訪れているが、そういう歴史の悲劇を抜きにしても魅力ある土地であると思う。
 今度の旅でお会いした飯沼一元さんは、飯盛山で自刃した白虎隊士の中で唯一生き残った飯沼貞吉の直系の孫にあたる方である。飯沼さんは現在「白虎隊の会」という団体を立ち上げ、事務局長をしておられる。
 その飯沼さんとともに福島県立博物館で開催されている「白虎隊の図像学」という展示を見た。明治の初期から現代まで、絵画に描かれた白虎隊の自刃事件をたどることで、国家あるいは国民の白虎隊に対するとらえ方の変遷を見ようというものである。
 飯沼さんがまず言われたのは、白虎隊の自刃ついてさまざまな形で伝えられてきているが、その実際の姿を知るものは、生き残った飯沼貞吉だけであるということであった。しかし、晩年にいたるまで、貞吉の口は固かったという。飯沼さんが生まれた時にはすでに貞吉は世を去っていたので、じっさいに貞吉の言葉を聞くことはなかったのだが、飯沼さんのまわりの人たちも、白虎隊のことを語ることはなかった。
 戊辰戦争が終わり、傷も癒えた貞吉は、他の藩士とともに猪苗代に集められた。そこには絵心のあるものがいて、貞吉が語ったことを後になって絵画に表現したのだという。
 だから明治の初期に描かれた図は、比較的事実に即して描かれており、苦悶の表情、周囲の景色もリアルである。そこには作者の意図というものが入っていないので、より生々しく悲劇が描かれている。
 しかし、時代がすすむにつれて白虎隊像は変遷する。日本が軍国化する中で、忠君愛国の象徴として美化され、そんな意図で描かれるようになった。また、石版画の手法(オフセットの原始的なもの)により大量に刷られ、多くの人に目に触れるようになった。
 飯沼さんはこの石版画の白虎隊自刃の図が、山口県萩市の地蔵堂に祀られ、近所の人たちの手で大切に守られているということも話された。実はこの図像、春の山口旅行で私も目にしている。この時も飯沼さんは同行された。
 このことは、長州にまで白虎隊のことが伝わっていったということの一つの証拠になるものだが、萩の人たちがどんな思いでこの図像を祀ったのか、もちろんいまとなってはわからないが想像をかき立てさせる出来事である。
 私なりに解釈すれば、戊辰戦争について、実際に戦った武士たちと庶民のとらえ方というのはずいぶんと違ったのではないかということである。長州の場合は奇兵隊などの民兵が多かったのだが、やはり武士と庶民とでは敵に対する感覚が違っていたようだ。かえって庶民の間にこそ、同じ日本人という感情があったのではないだろうか。
 話がわき道にそれてしまったが、その後昭和となりいっそうの軍国化の中で、白虎隊の自刃は士気を鼓舞するための象徴として意図的に利用されていったのだという。
 戦後の白虎隊像については、新選組と同じように悲劇のヒーロー化していくのだが、それについては改めて考えることにする。
 飯沼さんが「白虎隊の会」をつくろうと思ったのは、そんな戦争中に歪められてしまった白虎隊像の原点を求めてのことであったという。
 飯沼家では白虎隊の話はタブーであったという。それは貞吉の遺訓でもあった。一人生き残った貞吉は終生その葛藤の中で行きたのであろう。
 さらに戦後になっては、白虎隊が軍国主義の鼓舞のために利用されたことへの反省もあり、飯沼さんたちは沈黙せざるを得なかったのだろう。
再考・白虎隊の義


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Posted by 南宜堂 at 09:41│Comments(0)幕末・維新
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