2010年07月06日

白虎隊の「義」とは

 飯沼さんのお考えは、日本の軍国化の中で歪められてきた「白虎隊の義」を原点にまで戻って考えてみたいということだろうと思う。私もこれには大賛成である。しかし、白虎隊の義がこの140年の間に歪められたという表現には少しの異論がある。私は歪められたのではなく、増幅されたのではないかと考えるのである。
 白虎隊の「義」とは何なのか。それは主君への義、忠義のことである。藩校日新館での教育の中で教え込まれた主君への忠義なのである。
 それが15年戦争の時代に、天皇への忠義に置き換えられて、賞賛されてきた。白虎隊の忠義の本質は変わらなくとも、それを利用しようとする者たちの動機もあって、増幅されてきたのである。
 リヒャルト・ハイゼ「日本人の忠誠心と信仰」は、戦前の日本に長く暮らしたドイツ人による、日本文化論ともいってもいい本なのだが、ここに白虎隊の忠誠心が取り上げられている。
「敵の軛につながれて、落剥の身を鎖に縛られたまま、不平不満だらけの長い不幸な人生を老いさらばえるよりも、故郷の子として若く散ったほうがどれほど美しいことか。
 青春の教えにつらぬかれた少年たちは、彼らからすれば悲惨と映る運命をまぬがれる唯一の道をこれだと見つけ出す。」
 ハイゼの目には、白虎隊の少年たちの自刃がこのように美しいものと映った。白虎隊の忠義は、藩主松平容保への忠義である。しかしそれは単に藩主として君臨する殿への忠義の心を越えて、容保が持つ慈しみの心への忠義であり、愛と置き換えてもいいような心情であった。
 それがヨーロッパの合理精神の中で育ってきた人間には、なんともうらやましく崇高なものに見えたのではないだろうか。
 ハイゼは、飯盛山に建つイタリアのムッソリーニから贈られた記念碑に触れて、次のように述べている。
「白虎隊、そしてさらに広い意味では、松平容保に仕えたすべてのサムライや家来たちの胸を高鳴らせた徳目や志操は、今日のような時代といえども一民族の指導者なら誰もがその部下や信奉者にのぞむところのものである。自我を捨てた忠誠、犠牲をいとわぬ祖国愛、そして嬉々とした従順さ、これらは、国家繁栄をめざす統治と支配を容易ならしめる。」
 「松平容保に仕えたすべてのサムライや家来たちの胸を高鳴らせた徳目や志操」を何とか利用できないかと考えたものたちがいて、結果的にはそれが日本の軍国主義化に利用されたのである。
 白虎隊の少年たちの取った自刃という行動は、慶応4年の会津の環境の中で考えなければいけないだろう。彼らは日新館の教育に従順であり、会津武士としての忠節をまっとうしたのである。 
 しかし、140年が過ぎた現代から見ると、それは悲劇でありあまりにもったいない死であったと思う。
 だから白虎隊から学ぶべきは、その義を現代によみがえらせることなどではなく、なぜあのような悲劇が起きたのかを考えることではないだろうか。
 義はたいせつである。しかし、その義は命令と服従といった上下関係の義ではなく、平等な人と人とのつながりにおける義でなければいけないと思うのである。
 


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Posted by 南宜堂 at 23:33│Comments(2)幕末・維新

この記事へのコメント

南陽です。
わたしもあの碑を拝見したことがあります。
本で書かれていたのでその存在は実際に目にするまで
知っていたのですが
それを実際に見ると幕末的な空間にはちょっと違和感を覚えました。
ヨーロッバでも紹介されるほどですから、当時の人には驚嘆的な出来事だったでしょうね。
Posted by 南陽 at 2010年07月07日 20:35
何かの折、あのモニュメントは撤去できないのかという話が出ました。
隊士たちの崇高な精神に共鳴してのモニュメントですから、これを撤去すれば彼らの精神を冒涜することにもなってしまうということだと思います。難しい話です。
Posted by 南宜堂南宜堂 at 2010年07月08日 09:46
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