2010年12月15日

戊辰戦争前夜

 テレビドラマ「龍馬伝」は、龍馬の暗殺をもって終わってしまったのであるが、実際の歴史はそこで終わったのでは中途半端なのだ。「龍馬伝」の最終回は何かものたらなかったのはそんな思いがあったからだろうか。龍馬が仕掛けた大政奉還の行方がどうなったのか。あれだけ気をもたせたのだから、その後のことも描いて欲しかった。
 徳川慶喜が大政奉還の上申をした慶応3年10月14日、薩摩藩と長州藩に倒幕の密勅が出されている。賊臣徳川慶喜を殄戮せよというものだ。しかしこれは偽勅であるというのが定説となっている。この時点で、薩摩や長州は大政奉還の帰趨に関係なく、武力倒幕以外のことは考えていなかった。
 それに対し土佐の山内容堂や越前の松平春嶽は公議政体論を主張しており、両者の間には大きな隔たりがあった。坂本龍馬もまた武力倒幕を望んでいなかった。いわゆる「龍馬が望まなかった戊辰戦争」である。龍馬が描いた新政府のプランには徳川慶喜は内大臣に擬せられていたのである。これをもって龍馬も公議政体論に与していたと考えていいのだろうか。薩摩や長州と深い繋がりをもち、倒幕のために画策していた龍馬がいつのまにか転向してしまったのだろうか。 「坂本龍馬」の著者飛鳥井雅道氏は「この内大臣は実はかざりものなのである。」という。その証拠には、龍馬が作成したという新政府の閣僚たる議奏・参議には幕臣が一人も入っていないからだという。確かに実験を握る参議には、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀、木戸孝允、広沢真臣など討幕派が主体であって幕臣は一人もいない。
 逸る薩摩や長州の討幕派の中にあって、龍馬は戦いを避けるための方策として大政奉還→慶喜内大臣を想定した。そのための条件として幕府に経済権の放棄を求めたのである。龍馬の手紙にある「江戸の銀座を京師に移し」とあるそれである。これが討幕派を説得するための最後の切り札であった。しかし、慶喜がそれを安易に受け入れるはずがない。彼自身大政奉還をしたものの諸侯から推されて再び権力者の座に就くという望みは捨てていなかったのだ。
 12月9日、王政復古の大号令が出された。慶喜の将軍職の辞任を認め、新たに総裁、議定、参与の三職を置くというものであった。この日の小御所会議では徳川慶喜の議定就任が議題となった。山内容堂ら公議政体派の諸侯が強く推したものだが、これは西郷隆盛の恫喝によって退けられてしまった。
 この後新政府は徳川慶喜に辞官納地を要求する。龍馬が言った「江戸の銀座を京師に移し」の具体化である。慶喜はこの要求を保留しいったん大坂城に移る。ここを拠点に復権のための工作をはじめるのである。新政府内では公議政体派が大きな力を持っていたこともあり、慶喜の工作は功を奏し議定への就任が実現するかにみえた。しかしこの時に勃発したのが鳥羽伏見の戦いであった。
 ここまでは坂本龍馬は見通すことができなかったのだろうか。簡単に慶喜が経済権を放棄すると思っていたのだろうか。龍馬の肩を持つとするならば、彼は十分にこのことは予想していたのであり、戦争と平和両面を想定して大政奉還のアイデアを出したのではないかとも考えられる。幕藩体制は終わらせるべきであり、徳川幕府は倒れるべきだ。そのためには戦いも辞さず。単純な平和主義者ではなかったようである。


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Posted by 南宜堂 at 02:20│Comments(0)幕末・維新
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