2010年12月18日

改めて、戊辰戦争を考える。

 ときどきこの欄でも書いているように、私はこの春まで戊辰戦争研究会という団体の会員であった。作家の星亮一氏が主宰する団体で、私は星氏に誘われて数年前に入会した。 もともと歴史は嫌いではなかったが、近世とか近代は苦手であった。現代に直結しすぎていて、ロマンがないというのが理由らしくもない理由なのだが、それまで善光寺を中心とした中世の民衆の意識のようなものについて考えていたせいもある。
 しかし、入会したからにはと思い、少しずつにわか勉強をはじめたのだが、随所に価値判断を迫られる場面があって、困惑することが多かった。たとえば会の名称でもある戊辰戦争である。薩摩や長州と会津を中心とした奥羽、いったいどちらに正義があったのか。
 主宰者の星氏は、当然のことながら会津寄りの人である。会員もその考えに近い人が多かった。私も長年星氏の担当編集者を務めていたということもあって、会津や東北の諸藩にシンパシィを抱いていた。だが、歴史というのは先入観を捨てて、事実を見て客観的な判断をするものである。思いに流される危険は避けなければならない。
 たとえば「龍馬が望まなかった戊辰戦争」である。歴史としての戊辰戦争を坂本龍馬の主観によって価値判断を下していいものなのだろうか。何かそこには坂本龍馬というカリスマを使って判断を正当化するという思いがあるような気がする。第一、坂本龍馬はほんとうに戊辰戦争を望んでいなかったのか。戦争が勃発する前に死んでしまった龍馬に聞くというのもへんな話のようだ。
 その坂本龍馬を魅力的に描いた司馬遼太郎は戊辰戦争について、あれは鉄砲の差で勝敗が決まったのだということを言っている。さらには、奥座敷にいた奥羽諸藩は玄関先での騒ぎに疎く、玄関脇に控えていた西南諸藩は外の騒ぎに敏感に反応したのだというのである。
 この司馬の言い方は、遅れた東北という通念に対するアンチテーゼとして展開されたものである。遅れていたわけではない、外国の脅威とはかけ離れた地にいたため、危機感が無かったのだということであり、それが軍備に後れをとり、戦争にも敗れたのだということなのである。現象面から見ればその通りであると思う。
 倒幕を目指していた薩長としては、幕府が降伏した後でも、東北に会津という強国が存在することが脅威であったのだ。それで全力で倒しにいったのであり、革命を起こす側としては当然の戦いであったのだ。会津藩にしても、自国の領土を占領されることが許せなかったから戦ったのであろう。そして鉄砲の差があり、会津は敗れた。そこに、天皇を戴いた官軍だとか、それに対抗する東北政府だとかいう概念が入り込んでくるのでややこしくなるのである。
 ただ、私たちはその後の歴史を知っているので、現代という視点から戊辰戦争を照射したならば、欧米並の中央集権国家をつくるための革命であったという評価も生まれる。早くに藩政改革を行い近代国家に近づきつつあった西南諸藩は、幕藩体制の限界を知り、これを終わらせることが日本を外国の脅威から守る唯一の方法であるという結論に達していた。当然のことながら坂本龍馬もその考えであり、その立場から大政奉還を迫ったのである。
 一方の幕府や会津藩は幕藩体制の温存のために戦った。幕末まで藩政改革が進まず身分制度が固定していた会津は、一人の高杉晋作も西郷隆盛も、ましてや坂本龍馬も生み出すことはできなかった。会津が負けたのはそのせいであったと思う。


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Posted by 南宜堂 at 01:30│Comments(0)幕末・維新
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