2010年12月25日

戊辰戦争の勝者と敗者

  歴史とは過去に起こった事象であり、歴史を知るとは、その事象をさまざまな方法により解明し本質に迫ることである。しかし、その時の私たちの視点は現代にある。時代は続いているとはいえ、そこには時間という長い三次元空間が横たわっているのである。
  よく司馬遼太郎の歴史小説について、高いビルの屋上から俯瞰するように時代を描いているということがいわれるが、それはあたかも現代という高みから三次元空間を隔てて過去という時代を俯瞰しているということであるとも言えるのである。
   当然のことながら、ビルの屋上から眺めている私たちは現代にいるわけだから、現代の価値基準をもって地上で展開している事象を見、そして判断をくだす。歴史のとらえ方としてその方法は果たして正しいのだろうか。もっとほかの方法、例えば従軍記者のように、生起している事象に寄り添って、その時代の価値基準で理解していくという方法もあるのではないか。
   例えば戊辰戦争である。歴史を俯瞰するという立場からは、幕府や藩を解体して欧米に対抗できる中央集権国家をつくろうとしていた薩摩や長州と、幕藩体制を守り、身分制度を維持しようとしていた幕府や会津の戦いという見方ができる。
   結果として、薩摩や長州を中心とした勢力が勝利をおさめた。もし幕府が勝ち、幕藩体制が維持されていたならば、現代の日本の繁栄はなかったとも言われる。これをもって薩長が正しかったのだと判断していいものか。
   一方で、先ほどの従軍記者の視点で戊辰戦争をとらえてみると、果たして薩摩や長州の指導者たちのなかにそんな先まで見通して戦ったものがいたのかという疑問がわくのである。東北の正義を主張する人たちはこんな見方をする。あの戦争は薩長による討幕戦争である。天皇はそのために玉として利用されたのだ。義を重んじた東北こそが正義なのだと。はては奥羽諸藩は東北政府を指向していたとまで、その主張はエスカレートするのである。

   私は明治維新の最大の立役者は、勝海舟と西郷隆盛だと思っている。江戸無血開城を成し遂げた二人である。無血開城の功労者だからというのではない。あの革命の本質をいちばんに見抜いていた二人だと思うからだ。海舟は「時勢」という事を晩年になっていっている。
   咸臨丸で渡米した海舟が向こうで学んだ最大のものは能力主義だった。帰国後、上役から「何か眼を付けたことがあろう」と再三問われて、「アメリカでは、政府でも民間でも、およそ人の上に立つものは、皆その地位相応に利口でございます。この点ばかりは、全くわが国と反対のように思います」とぬけぬけと言ったという。
   このエピソードは晩年になってのほら話と割り引くにしても、勝海舟がアメリカの能力主義に我が意を得たのは確かであっただろう。「人の上に立つものは、皆その地位相応に利口」という能力主義こそが、海舟が終生変わらずに抱き続けたものであり、「時勢」という言い方も身分制度では乗り切れない時代を見通してのものであったろう。海舟にとって幕府は倒れるしかないものであった。ただ幕臣たちの行く末ばかりは気がかりなことであった。無血開城後の海舟の情熱はそこに注がれたのをみてもわかる。
   一方の西郷隆盛は終始一貫して武力による討幕を主張していた。西郷が望んだ戊辰戦争であった。彼は武力でしか旧体制を倒すことができないと確信していた。挑発までして鳥羽伏見の戦いを誘発したのは、その信念の表れである。
   会津を攻めたことについては、幕府に振り上げた刃が全面降伏により振り下ろす所を失い、代わりに会津に振り下ろされたのだという言い方を司馬遼太郎がしているが、それだけではないはずだ。会津など奥羽諸藩は幕藩体制の維持を指向していた。それは西郷らの構想からすると抵抗勢力なのである。何としても倒さなければならない相手だったのである。
   東北や会津を擁護する論者たちは、薩摩や長州の討幕の戦いを徳川に代わる新しい権力者にならんとする戦いであったと非難する。会津を攻めたのは、京都での恨みを晴らすためであったとまで決めつけるのである。
   さらには東北に進駐してきた新政府軍の無礼な振る舞いを上げ、東北は正義のために彼らの無謀を許すことができなかったのだと、東北が立ち上がった訳を説明してみせるのである。
   戦いの局面だけ見ていればそういう解釈も成り立つのかもしれない。二本松少年隊や白虎隊の最期、会津城下での戦いや鶴ヶ城での籠城戦の悲劇は、宮崎十三八や星亮一氏に言わせると広島や長崎に落とされた原爆以上の悲劇だったという。
   この宮崎や星氏による原爆以上という発言は、後に大きな批判を呼ぶのであるが、ここで一言だけ私もこの発言にはおおいに疑問を感じる。単に被害の甚大さの比較のために不用意に原爆を持ち出したことは大いに非難されるべきだが、根本的なところで彼らは間違っているのである。広島や長崎の原爆の犠牲となった人たちはほとんどが何の抵抗もできない市民であった。それに対し、戊辰戦争で自刃したり戦死したのは武士とその家族たちである。戦うことを覚悟した人たちであったのだ。
   話が横道に逸れてしまった。要するに戦いの局面だけをとらえてことの善悪を判断するのは、心情的にはわからないわけではないが、それは歴史的な事象の全体をとらえたことにはならないのである。
   薩摩や長州にとって、戊辰戦争は250年以上続いた幕藩体制を終わらせるための戦いであった。一方で奥羽諸藩にとっては幕藩体制を守るための戦いであった。その違いは、西南諸藩においては武士階級における身分制度というものが早くに崩れていたのに対して、奥羽諸藩では未だ身分制度というものが守られていたことにあった。


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Posted by 南宜堂 at 00:34│Comments(0)幕末・維新
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