2011年01月09日

もうひとつの戊辰戦争 続き

 渡辺敏の経歴について、戊辰戦争前後の時代にもう少し肉付けして考えてみたい。彼はは亡くなる2年前の昭和3年には故郷二本松を訪れ、「戊辰の戦死群霊弔祭」に出席して講演をしている。その筆記録がガリ版刷りで残されている。それによると、「私は幼名浅岡信四郎と云うて浅岡段助の四男であります 今は渡辺敏と申し曾祖父竹窓以来三代儒者を勤めました 其三代目の渡辺新介の後を継いで渡辺敏と申します 実父も養父も処と時日は違いますが共に戊辰の戦に戦死致しました 私は其時二十二歳でありました」
 元治元年、禁門の変に際し、敏は弓組として出兵したが、すでに平定されており、富津台場の在番を命ぜられる。しかし「其海辺は遠浅にて外国船の往来は近くて二十余町より四五十町沖を通過するのでありますから之を食い止めるに我が弓矢は何の役にも立ちませず然らば大砲はと云えば我が大筒方の為す所を見れば其の役に立たぬ事は弓矢と殆ど変りないのであります」
 沖に停泊する外国船の攻撃に対し、二本松の弓組も大筒方も、富津の警備には何の役にも立たなかったのである。水戸藩が幕府に献上した大砲が台場には据え付けられてあったが、誰も取り扱う術を知らず,相変わらず二本松から曵いてきた大筒で訓練をしている有り様であった。
 こんな時代遅れの装備ではとても外国船との交戦など及びもつかない。そんな状況の中で敏は「武人として国のため君のため藩主のために働くには如何なることを学ぶべきや煩悶懊悩し」ていた。
 翌年になると、浅川安十郎という人が新式の大砲を台場に据え付けに来た。敏は浅川に、自分は弓組を命ぜられて富津に来たのであるが、ここの防御には弓は何の役にも立たない。我が藩の大筒方も新式の大砲を用いようとせずおのが流儀に固執していると、自藩の現状を正直に話し、これからの自分のとるべき道を訊ねた。 
 浅川は、これから砲術を学ぼうとするなら、高島流の砲術を学ぶのが一番だと答えた。もしその気があるのなら自分が身元を引き受けてあげるから江戸に出て来なさいとまで言ってくれたのである。
 敏は浅川の助言に従って、江戸に出て高島流の砲術を学ぶことを決意する。父母と長兄は許してくれたのだが、中兄が反対した。その言い分は、学問をつけても他藩に仕官したり、よその養子になったのでは二本松藩のためにはならないと言うのである。
「畢竟学問でも武芸でも御国の守となり君父ののために其学問も武芸も必要なので然るに学問武術が他国の用をなす様な事では寧ろ学問武芸なきしかずある 一旦事あるに当っては其学問武芸を以て父母に刃を向け君に弓を引く様な事にもならぬ限りでないのである」これが中兄の論理であった。
 結局敏はこの言に逆らえず、江戸遊学をあきらめるのである。そのうち戊辰戦争がはじまり、敏は笹川関の警備を命ぜられる。そして7月29日、二本松城は落城する。
 二本松藩は落城まで勇敢に戦った。それであるのに、戦闘にも加わらず関門の警備だけをしていた自分がいかにも情けなく、まさに慚愧に堪えずという心境で、戊辰60年を迎えてもまだ敏の心は穏やかではなかった。
 しかし、あのとき自分が江戸に出て砲術を学んでいたら、あるいは藩が新しい技術に目を開いていたら、また違う現在があったのかもしれないという思いは敏の脳裏をかすめたのではないだろうか。敏が教育者になろうと決心したのはそんな底流があったからかもしれない。
 司馬遼太郎は、戊辰戦争の勝敗の原因は鉄砲の差だということを言っている。もちろんこの言い方は比喩的なもので、直接に軍備の差だけのことを言っているのではないだろう。そういう科学技術を受け入れるだけの藩の許容度のことであろうと思う。 
 幕末の二本松藩は、渡辺敏の目にはとても攘夷を断行できるだけの軍備があるとは思えなかった。それだけではなく、目の前に新しい技術があっても、それを受け入れるだけの度量をもっていなかったと敏は思ったことだろう。それを阻んでいたのは厳格な身分制度であったと、戦後60年を経て敏は明確に理解した。

 現代の視点から見れば、戊辰戦争というのは封建的な身分制度を解体するための戦争であった。あの時代を生きた人たちの中で、そのことを意識していたものがいたのだろうか。アメリカの制度を見てきた勝海舟や福沢諭吉はわかっていたと思う。西郷隆盛や木戸孝允や坂本龍馬といった下級武士出身のものたちもおぼろげながら意識していたのではないだろうか。
 維新前に凶刃に倒れてしまったが、我が信州の佐久間象山は身分制度の解体までは考えられなかった。会津や仙台や米沢やそして二本松の指導者たちも、封建制度が絶対というところからは一歩も出ることはできなかった。
 渡辺敏が子供たちの教育に熱心に取り組んだのも、古い封建意識により学ぶことを阻まれたという自らの体験があったからであろう。敏は最終的には高等女学校の校長になるのだが、初等教育の重要性を常に強調していたという。さらには、障害者や貧しい家庭の子供にも等しく教育の機会が与えられるように、盲学校や子守学級の創設にも取り組んだのである。
もうひとつの戊辰戦争 続き


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Posted by 南宜堂 at 01:10│Comments(0)幕末・維新
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