2012年07月23日

長野電燈のこと

長野県の電力会社の最初は長野電燈で、明治30年の創立である。本社は、大門町の現在は市営駐車場になっている場所にあった。意匠を凝らした赤れんが造り二階建て、円形の塔をもつ洋館で、長野電灯が移転した後も医師会の建物として長く長野の人々に愛されていた。今はもうその姿はなく、御影石の「長野電燈発祥の地」の碑が残るのみである。
明治30年5月17日、長野電燈会社の創業総会が、城山館で開かれた。会長は小坂善之助、村山村(現在の長野市村山)の地主で、「信濃毎日新聞」の創業者でもあった。長野電灯は茂菅に60キロワットの発電所を建設し、長野の町に電気を供給する計画だった。
一年後の明治31年5月31日の「信濃毎日新聞」に次のような記事が載っている。「長野電燈の開業、昨夜試点灯を行ひ今夕より開業。」この日の夜から長野に電灯がともるようになった。この時の電気料は、10燭光(約10ワット)電灯一灯が一ヵ月で70銭であった。その後明治37年には大幅に値下げされ、10燭光が45銭になっている。
長野の町に電灯がともったといっても、全部の家庭に普及していたわけではなく、開業から二年後の明治33年、普及率はようやく三分の一に達したところであった。そうはいっても、文明の利器である電灯は石油ランプに代わって家庭に普及し、長野電灯でも明治38年には芋井に新しい発電所を建設している。
明治になって、鉄道、電力、水道、郵便、電信といった様々な近代的なインフラがわが国にももたらされるようになったが、鉄道や郵便が官営であったのに対し、電力会社は民営であった。長野電燈を作った小坂らがどんなビジョンを抱いて電力事業を切り開いていったのか、勿論将来性のある事業への投資といった経済的な理由もあったろうが、社会貢献という考え方もあっただろうと思う。
長野電燈はその後、合併を繰り返しながら、戦争中中部電力に統合される。明治には各地にあった電力会社が、国策で地域一社に強制的にされるのである。
大きくなった電力会社は、経営効率だけを目指して原子力発電の割合を増やしてきた。ここまで大きくなると、経営者の思いなどは吹っ飛んで、ただ利潤追求だけが求められるようになる。会社が大きくなるというのも、考えものだなと思うのである。


  

Posted by 南宜堂 at 21:58Comments(0)長野の町

2012年07月19日

斎藤真一展

上杉謙信の春日山城と松平忠輝の福嶋城とそして高田藩の高田城と駆け足で巡ってきた。春日山城は団体で訪れる人も多いようで、おもてなし隊なる武将やお姫さまの衣装を来た若い人が愛想を振りまいていた。今はどこもこんな感じなのだろうか。
福嶋城趾は佐渡行きのフェリー乗り場の近くにあるが、碑が建っているだけで、痕跡はない。私が行った時は誰もいなかった。松平忠輝が松代から移った城だが、間もなく高田城をつくってそちらに引っ越している。波の音がうるさくて眠れないからだというのが理由だと伝えられているが、忠輝というのはそんなにわがままな殿様だったのだろうか。
高田城趾には博物館や図書館があって市の文化センターのようになっているが、その中の小林古径美術館では斎藤真一の展覧会が開かれていた。斎藤真一は瞽女をよく描いた作家で、ずいぶんと前に亡くなっている。越後瞽女の本拠地は高田で、ここだからこそ行われている展覧会なのだろう。平日の昼間ということもあろうが、客は私一人で、ゆっくりと見せていただいた。
瞽女については、盲目の旅芸人であること、何人かのグループで旅を続け、門付けや時にはお座敷に呼ばれその芸を披露し、その報酬で生計を立てていたというくらいの知識しかないのだが、今はもういなくなってしまっている。小さい時に親方のもとに引き取られ、芸を仕込まれるのだが、一生結婚することは許されなかったのだという。
無形の文化財だから、何とかその芸を残したいという動きがあるようだが、瞽女の芸というのはその過酷な日常の中から生み出されたものだから、形だけ残してみても意味がないように思う。
斎藤真一の絵は、赤や黒を好んで使っていて暗い中から湧き上がる情念のようなものを感じるのだが、平穏無事な毎日が正常だという感覚からはなかなか入っていけない世界だろうとは思う。

  

Posted by 南宜堂 at 10:55Comments(0)雑記

2012年07月18日

群馬の真田

関東地方はこの夏一番の暑さだというのに、物好きにも群馬に行ってきた。群馬の真田を取材するのが目的だが、もう原稿は終わっているので、書いたことの確認のために行ったようなものである。
長野から松代に向かい、そこから地蔵峠を越えて真田に向かう。この道をたどれば松代と真田は峠を挟んで隣同士である。かつて佐久間象山は、松代から上田の活文禅師のもとにこの道を馬で毎日通ったという。毎日となると車でも嫌になるのだから、ここを馬で通った象山はずいぶんと我慢強かったのだろう。
真田はその名が示すように、真田氏発祥の地である。ところが、真田氏の祖先がここでどのような活動をしていたのか、よくはわからないのだ。文献の上では、幸村の祖父にあたる幸隆の時代から真田は突然現れるのである。しかも、武田氏らに攻められて、上野に逃げていくという格好の悪い登場の仕方をする。真田のルーツ探しはそれで興味深いところだが、今日の目的は上野である。
鳥居峠を越えて群馬県に入ると急に視界が開ける。広大な高原地帯でレタスやキャベツを作っているのだ。昌幸が野菜好きだったわけではなかろうが、川中島の戦いの後、真田は上野に進出していく。その時の拠点が岩櫃城であった。城跡まで登ってみるのが取材だとは思うが、熱中症の恐れありということで遠くから写真のみ。
岩櫃城にしろ、戸石城にしろ戦国の城は険しい山の上にある。もちろん普段は麓に住んでいて、戦になると籠もる城なのである。

次に訪ねた沼田城は利根川の河岸段丘の上に築かれた城で、どちらかというと平城に近い。沼田は町全体が河岸段丘の上にあって、天然の要害である。

  

Posted by 南宜堂 at 07:57Comments(0)真田十勇士

2012年07月13日

藩物語 松代藩

今週上京して、出版社との打ち合わせで、「藩物語 松代藩」の刊行が8月に決まった。できれば旧盆前に書店に並べたいというのが版元の意向である。秋頃かなと気楽に構えていた私としては、ちょっとバタバタしている。
先日、地元の出版社の社長と会った折、彼は心配してこのようなことを話してくれた。松代の場合、
専門の学者も多いし、地元には詳しい郷土史家もいるので、やりにくいのではないかと。実はこのことは、執筆を引き受ける時大いに悩んだところであった。私如きが書かなくとも、専門家は多いのではないかと。
版元の現代書館の菊地社長から、いやこれは学術書ではないから、物語として一般の読者が楽しんで読んでもらえる本にしたいのだとというアドバイスをいただいてやってみようと思ったのである。先日のブログでも、栗岩英治の言葉を紹介したが、歴史学者の方々からみると、通俗の歴史書や歴史小説、あるいはNHKの大河ドラマの虚構は苦々しい限りだと思う。
今回の松代藩の歴史を書くに当たって、真田の歴史については「真田三代記」を、川中島の戦いについては「甲陽軍鑑」を、恩田木工の改革については「日暮硯」を参考にしている。いずれも歴史的な事実とは違うと言われる書である。ただ、こういう書を鵜呑みにして使うことは無いが、こういう書物ができてきた背景を探りながら読んでいくのは楽しい。これは前著「善光寺のなぞ」でも「善光寺縁起」の面白さに魅せられたのと同じことであった。
あったことを正確に書くのは大事だが、虚構の背景を探るのもまた楽しいことである。戦前の子供達にあれ程読まれた「立川文庫」がいまどうして読まれないのかを探る興味と一緒だと思う。
いずれにせよ、嘘を書いたわけではないが、読む側に立って書いたつもりである。松代藩というのは、一地方史に留まらず、武田信玄・上杉謙信・山本勘助・松平忠輝・真田幸村・恩田木工・佐久間象山、そして松井須磨子・松代大本営と人も事件も豊富である。読んでいただければありがたいです。読まなくても買うだけでもありがたいです。
  

Posted by 南宜堂 at 11:38Comments(0)

2012年07月09日

民衆の川中島

  それぞれ大義名分を立てて戦った「川中島の戦い」であったが、その実態はとてもきれい事ではすまされるものではなかった。特に戦場となった村々では、その被害はそこに住む農民たちに及んだ。戦闘により田畑は荒らされ、時に争いに巻き込まれ犠牲となることもあった。
 動員されてきた兵士たちは、戦場の村々で略奪を繰り返し、乱暴狼藉をはたらいた。末端の兵士たちにとってこれは戦闘に駆り出されることの見返り、余録のようなものであった。指揮官たちも村に放火し、神社仏閣を焼き払い、青田を刈り取った。こちらは敵の戦闘能力を削ぐという狙いがあった。
 家を焼き払われ、家族を殺され、田畑を荒らされた百姓たちは、経済的には困窮し、精神的にも追いつめられ、村から逃げ出したり、他領に移って命をつなぐものもいた。なかには流民となってさまようものも出てきた。武将にとっては、これが敵方の領地で起こったことであれば、収穫を減らすことができて自軍には有利にはたらくのだが、それはそのまましっぺ返しとなって自分の領土でも起こることであった。武田信玄は、諏訪社の神長に宛てた文書で、祭礼を復興したいが「十五カ年已来兵戈止むを得ざるにより、土民百姓困窮」していると本音を述べているが、長引く戦いにより、百姓たちが困窮するのは、自領の経済をも脅かす一大事であった。
 蹂躙される民衆の側は、戦いがはじまると、身の回りのものを持って山に逃げ込んだり、大きな寺に籠もったりした。これが百姓たちにできる自衛の手段であった。しかし、黙って堪えているだけではない百姓たちもいた。長野市稲里町の青木家には、「幕張りの杉」と呼ばれる杉の木がある。そのいわれは、永禄四年の川中島の戦いの前、青木家の当主は武田・上杉両軍に交渉して、杉の木の間に張り渡した幕の内側には立ち入らないことを約束させて村を戦火から守ったのだという。そういう言い伝えのある杉が現在も青木家の敷地内に立っているが、現在のものは三代目の杉であるという。
 和歌山県立博物館に所蔵されている「川中島合戦図屏風」には武将たちの戦闘のようすに混じって、上杉軍の小荷駄隊を襲う農民たちの姿が描かれている。抵抗することなく逃げまどっていたと思われていた百姓たちであったが、中には武装して小荷駄隊や敗走する兵士たちを襲うこともあったということであろう。それが屏風に描かれているということは、まれなことではなかったということを示しているのではないか。民衆の側から見た戦いのようすというのはなかなか記録として残されることはないのだが、古文書の断片、土地に伝わる伝承によってその一端を伺うことができる。
 「川中島の戦い」というと、山本勘助が立てたという啄木鳥の戦法や「鞭声粛々」雨宮の渡しを渡る上杉軍の姿、そして八幡原での両雄の一騎打ちなどが人口に膾炙され、小説やテレビのドラマでも繰り返し再現されるのであるが、知られていない民衆の戦いがあったことを忘れてはならない。『信濃史料』の刊行という畢生の大事業を行った郷土史家の栗岩英治は川中島の戦いについて次のような辛辣な言葉を残している。「古来、川中島の戦ひと云へば、戦争中の戦争として、一、徳川初期からの戦学家、二、講釈師、三、絵草紙屋、四、三文本、などの飯の種にはなって来ただけであった」。
 
  

Posted by 南宜堂 at 04:16Comments(0)松代